著名自分史「松永久秀」

オリジナル

松永 久秀

まつなが ひさひで

松永 久秀

1510年~1577年

70

三好長慶の下で勢力を伸ばすが長慶没後三好一門衆と対立して孤立、主家簒奪・将軍弑逆・大仏焼討ちの「久秀三悪事」で悪名を高め、織田信長に帰順して大和支配を回復するも信長包囲網に加担、二度目の謀反に敗れて名器「平蜘蛛」諸共自爆死した下剋上の代名詞

寸評

基礎点 60点 松永久秀は、三好長慶の下で勢力を伸ばすが長慶没後三好一門衆と対立して孤立、織田信長に帰順して大和支配を回復するも信長包囲網に加担、二度目の謀反に敗れて名器「平蜘蛛」諸共自爆死した下剋上の代名詞である。狡猾な辣腕家、主家簒奪・将軍弑逆・大仏焼討ちの「三悪事」で戦国三大梟雄に挙げられるが、斎藤道三・宇喜多直家のように恩人殺害や追放の証拠は無い。20歳過ぎで仕えた三好長慶は、微賤の出ながら有能な松永久秀を重用し、木沢長政・三好政長を討ち細川晴元・将軍足利義輝を追放して三好政権を樹立すると、40歳で京都所司代に就いた久秀は朝廷・幕府・寺社との折衝で頭角を現し、茶道・連歌に通じて一流の文化人となり、堺代官も兼ねて貿易で巨富を積み三好家中第一の勢力家となった。三好長慶が義輝・晴元を降し四国・畿内10カ国に君臨して全盛期を迎えるなか、大和侵攻を託された久秀は戦国城郭の範となる信貴山城(天守閣)・多聞山城(多聞造り)を築いて国人勢を討平した。が、主君長慶の運命は突如暗転、十河一存・三好実休・安宅冬康と柱石の実弟と嫡子三好義興まで相次いで喪い(久秀の陰謀説あり)、1564年自らも病没した。松永久秀は、近江六角・河内畠山の挟撃を退け、黒幕の将軍足利義輝暗殺により政権を保ったが(永禄の変)、権勢を妬む三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)ら一門衆との内部抗争が勃発、弟松永長頼の敗死で支配地の丹波を失い、三好義継を寝返らせ東大寺夜襲で三人衆を撃退するも挽回ならず(東大寺大仏殿の戦い)、1568年織田信長に帰服し加勢を得て大和を回復した。が、宿敵筒井順慶・興福寺の反撃で十市城を奪われ、信長に背いて近江戦線を離脱し順慶に決戦を挑むも大敗(辰市城の戦い)、孤立した久秀は信長包囲網に活路を託し謀反を起すが武田信玄急死で挫折、多聞山城と夥しい献上物を差し出して赦免され、佐久間信盛旗下で石山合戦に従軍した。そして1577年、信長包囲網再結成に呼応して再び謀反するが、頼みの上杉謙信が急死、大軍に信貴山城を攻囲されるなか信長所望の名物茶器「平蜘蛛」と共に自爆死、嫡子久通と妾腹の二児も処刑され松永氏は滅亡した。
10点 松永久秀は、寝返りが茶飯事で謀略渦巻く畿内政局をリードして三好政権を支え、主君長慶没後は三好一門衆の総スカンを食って孤立しつつも逸早く織田信長に帰服して勢力を保ち、猜疑心の強い信長から使い捨てにされる未来を予見して謀反の先鋒役を果した智謀の士である。「寝返り癖」は細川政元暗殺後の乱脈極まる畿内政局にあっては別段目立つことではなく、恩人の長慶には終生忠節を貫き、信長への最初の謀反は大和救援を拒まれたため止むを得ない面があり、実際に信長も赦免している。猜疑心強烈で裏切りを許さない信長の性格を知れば、上杉謙信と石山本願寺の強勢をみて捨て身の勝負に出たのも頷ける。戦国大名としては、畿内勢共通の弱兵故に戦闘には強くなかったが、京都・堺・奈良をおさえて抜群の経済力を備え、防衛強固な信貴山城・多聞山城で戦国城郭建築の先駆者となり、茶道や連歌に通じて朝廷・幕府の権威を巧みに利用、いずれも信長が踏襲したことを考えると天下獲りの先導役だったともいえよう。ただ、三好三人衆ら同僚の悉くに憎悪され三好政権衰亡の元凶となったのは不徳の致す所で、苛酷な施政に苦しめられた領民は久秀が滅ぶと農具を売って酒に換え大いに祝ったという。三好家簒奪・将軍足利義輝暗殺・東大寺大仏殿焼討ちは久秀の「三悪事」とされるが、義輝弑逆の主犯は三好義継と三人衆で久秀は不関与あるいは消極的だったとする説もあり、大仏焼討ちの非は東大寺に陣取った三人衆側にあるだろう。久秀自害の日が奇しくも大仏焼討ちから10年後の同日10月10日であったことは事実のようだが、後世の軍記物は久秀を異常な好色漢に仕立て、いつも美女数人を引き連れて行軍し興じると紙帳を張って用を足した云々と伝えるが、信憑性は乏しい。また、年貢滞納の百姓に蓑を着せて火を放ちもがき死ぬ様を「蓑虫おどり」と称して楽しんだとか(斎藤道三にも類話あり)、大ケチながら貯めこんだ名物珍品を気前良く信長に献上して命を繋いだ云々の悪評も、伝説の域を出ない。恩人を次々に葬り去って成り上がった斎藤道三・宇喜多直家と並べて戦国三大梟雄と呼ぶのは久秀には酷であろう。

史実

1510年 松永久秀がこの頃出生(氏素性不詳で生地も阿波・近江・京都西ノ岡の諸説あり、生家は商人とも斎院の賤隷(下僕)ともいわれる)

1511年 [船岡山合戦]前将軍足利義澄を擁する細川澄元・政賢と三好之長ら阿波勢が京都を奪還するが、近江の六角高頼が寝返り義澄が病死、洛北船岡山に陣取って大内義興・細川高国に決戦を挑むが総大将政賢まで討取られ壊滅、澄元・之長は本拠地の阿波へ逃れ抵抗を続ける

詳細を見る

1512年 尼子経久が山名氏領に侵攻し備後を支配圏に収める

詳細を見る

1515年 尼子経久が大内氏領に侵攻し石見西半を支配権に収め安芸にも勢力拡大

詳細を見る

1516年 北条早雲が反旗を掲げた三浦義同征伐、扇谷上杉朝興の救援軍を撃退し、新井城の兵糧攻めで勝利、義同以下の相模三浦一族を滅ぼし相模全域を平定

詳細を見る

1518年 尼子経久に領国を荒らされた大内義興軍が10年に及んだ京都滞在を終えて山口へ帰国、後ろ楯を失った将軍足利義稙・細川高国の政権基盤が揺らぎ、阿波で抵抗を続ける細川澄元・三好之長の陣営が盛り返す

詳細を見る

1518年 足利義晴(11代将軍足利義澄の嫡子)家臣の塚原高幹が京都政局に見切りをつけ常陸鹿島へ帰国、松本尚勝の世話で鹿島神宮に千日参籠し秘剣「一つの太刀」の境地に達し名を塚原卜伝に改める(生家の卜部氏に因む)

1519年 戦国大名の先駆け北条早雲が嫡子北条氏綱に家督を譲り伊豆韮山城にて死去(享年88)、早雲の遺訓は『早雲寺殿廿一箇条』に受け継がれる

詳細を見る

1519年 美濃守護土岐政房の死に伴い家督争いが激化、嫡子土岐政頼を擁する越前守護朝倉孝景は弟の朝倉景高を総大将に軍勢を派遣、土岐頼芸(政頼の弟)・長井長弘の敵対勢力を掃討し政頼に家督を継がせる

詳細を見る

1520年 中央政局を掻き回した南近江守護の六角高頼が死去、次男定頼が家督相続

詳細を見る
もっと見る

交遊録

松永久通 共に滅ぼされた嫡子
松永長頼 丹波で戦死した弟
内藤国貞 丹波守護代・弟長頼の岳父
内藤如安 長頼遺児・高山右近と共にマニラへ追放されたキリシタン武将
柳生家厳 久秀配下の大和国侍
柳生石舟斎宗厳 家厳嫡子の剣豪
三好長慶 忠節を貫いた主君・岳父
三好元長 長慶父
三好実休 長慶弟
安宅冬康 長慶弟
もっと見る