著名自分史「近衛文麿」

オリジナル

近衛 文麿

このえ ふみまろ

近衛 文麿

1891年~1945年

-20

陸軍以上の強硬論で日中戦争を泥沼化へ導き、日独伊三国同盟・国家総動員法・南部仏印進駐・対米開戦を決定した亡国の主人公

寸評

基礎点 -20点 日本一の名門近衛家の当主で頭脳明晰・容姿端麗な近衛文麿は、反米英・現状打破の論客として国民的人気を博し、軍部・右翼・政財界・大衆すべての期待を担い憲政史上の最重要局面で3度組閣、通算1035日の首相在任中に自らの中国蔑視・反米英思想に基づき日本の行方を決定した。近衛文麿は、血盟団事件の井上日召や五・一五事件の三上卓らテロ犯をブレーンに招くほどの過激思想家であり、決して「軍部のロボット」ではなかった。特に大日本帝国滅亡の元凶となった日中戦争泥沼化における責任は重大で、近衛文麿首相・広田弘毅外相コンビは、盧溝橋事件が起ると直ちに増派を決定し石原莞爾の不拡大方針を拒絶、「中国一激論」の首謀者である武藤章さえ停戦講和へ傾くなかトラウトマン工作を蹴って「国民政府を対手とせず」と宣言し(第一次近衛声明)日本を引くに引けない状況へ追込んだ。さらに、悪乗りした近衛文麿首相は持論の脱欧米秩序方針を「東亜新秩序声明」で公言(第二次近衛声明)、米英を激しく挑発し著しい関係悪化を招いた。再度組閣した近衛文麿は、同志の松岡洋右を外相に据えナチス・ドイツとの同盟を断行し(日独伊三国同盟)、自らの社会主義思想に則り国家総動員法・生活物資の配給制・大政翼賛会等を発動したが、楽観的見通しに反して米英が禁輸に出ると思考停止に陥り、軍部に引きずられ南部仏印進駐を承認、最悪の石油全面禁輸を招くと政権を投出した。近衛文麿は土壇場で政権を放り出したが既に全面撤退以外の和解策は無く、後継首相の東條英機は陸軍統制派ゆえに妥協を呑めるはずもなく対米開戦へ追込まれた。第二次大戦後、近衛文麿はGHQのマッカーサーに阿り憲法改定に生存を賭けるも挫折、東京裁判で裁かれる屈辱より服毒自殺を選択した。

史実

1891年 五摂家筆頭当主で公爵の近衛篤麿の嫡子近衛文麿が東京市麹町区にて出生

1904年 近衛篤麿の死により嫡子の近衛文麿が公爵近衛家の当主となる

1904年 日露戦争開戦

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1905年 ポーツマス条約調印

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1910年 近衛文麿が第一高等学校から東京帝国大学哲学科・京都帝国大学法科大学に進学(年次不詳)

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1910年 伊藤博文暗殺を機に軍部・対外硬派が韓国併合を断行、韓国統監府を朝鮮総督府に改組し軍政を敷くが民生向上により義兵運動は沈静化

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1914年 第一次世界大戦勃発、世界的物資不足のなか日本は特需景気を満喫

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1914年 大隈重信政府が日英同盟を名分にドイツに宣戦布告し南洋諸島・山東省青島を占領

1915年 大隈重信首相・加藤高明外相が袁世凱の中華民国に「対華21カ条要求」を宣告

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1916年 公爵近衛文麿が貴族院議員となる

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交遊録

西園寺公望 公家の先輩
牧野伸顕 華族の先輩
一木喜徳郎 華族の先輩
清浦奎吾 攻撃目標
木戸幸一 盟友
徳川家達 盟友
山本有三 学友
広田弘毅 亡国トリオ
松岡洋右 亡国トリオ
吉田茂 大陸派仲間
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