著名自分史「朝倉宗滴」

オリジナル

朝倉 宗滴

あさくら そうてき

朝倉 宗滴

1477年~1555年

60

若狭・丹後・加賀・近江・美濃・京都と命の限り戦い磐石の越前朝倉王国を築いた猛将

寸評

基礎点 60点 朝倉宗滴は、若狭・丹後・加賀・近江・美濃・京都と命の限り戦い磐石の越前王国を築いた猛将である。『朝倉孝景条々』で有名な越前守護朝倉孝景(英林)の八男に生れ、朝倉景豊の謀反討伐の功で敦賀郡司に任じられると、1506年19歳のとき九頭竜川の戦いで見事な勝利を収め朝倉軍の指導者となった。本願寺が反朝倉の管領細川政元と結び加賀・越中の一向一揆が越前に侵入、朝倉宗滴は一揆勢30万に対し1万ともいわれる圧倒的寡勢で撃退し、吉崎御坊を破却して一揆勢を加賀へ押し返した。甥の幼君朝倉孝景(宗淳)を補佐し事実上の当主として東奔西走、若狭守護武田元光を助けて守護代の反乱を鎮圧し、土岐政頼を擁して美濃守護家の家督争いに介入、1527年には将軍足利義晴の要請で率兵上洛し三好勢を掃討して京都を実効支配(管領細川高国の叛心により翌年撤兵)、本願寺の内紛に乗じて加賀一向一揆を攻撃した。守護土岐氏を滅ぼして美濃国獲りを果した斎藤道三に対しては、尾張の織田信秀・近江の六角定頼と提携して掣肘を加えるも、1547年加納口の敗戦により美濃侵出の夢は絶たれた。越中・加賀方面では、一向一揆を追い詰めるも壊滅には至らず、1555年自ら出征して決戦に臨んだが陣中で病に倒れ死の床についた。朝倉宗滴は、生涯現役の宣言どおり最期まで戦い続けたが、領土拡大の成果は乏しく、将軍を擁して天下に覇を唱えることもできなかった。しかし、隣国に武威を示して磐石の越前王国を築き、畿内の戦乱を逃れた公家や文化人を招き入れて一乗谷に京風文化を華開かせ、一方で武芸を奨励し中条流から富田勢源・富田重政・佐々木小次郎らの剣豪を輩出した。京都に近い地勢を占め室町幕府や朝廷に勢力を扶植した朝倉家は天下に最も近いといわれたが、宗滴没後、当主義景をはじめ凡庸な人材揃いで一族や家臣の内紛が起り、一向一揆の反攻を喰って和睦に追込まれ、ようやく越前を保つ有様となった。朝倉宗滴は臨終の際に「あと三年生き長らえたかった。別に命を惜しんでいるのではない。織田上総介の行く末を見たかったのだ」と語ったというが、その信長の手で18年後に朝倉家は滅ぼされた。

史実

1477年 越前守護で一乗谷城主の朝倉孝景の八男に朝倉教景(朝倉宗滴)が出生

1477年 大内政弘ら西軍諸大名の撤収により応仁の乱終息、足利義視は美濃に退去するが、畠山義就・政長は戦闘を継続

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1478年 応仁の乱の活躍で周防・長門・豊前・筑前の守護職を安堵された大内政弘が山口に帰国後間もなく九州へ転戦、反乱挙兵した少弐教頼を攻め殺し豊前・筑前を制圧(後継の少弐政資は大内氏への抵抗を続ける)

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1479年 越前一向一揆発生を嫌い吉崎御坊を退去した本願寺蓮如が京都山科に坊舎を築き居を定める(山科本願寺落成は5年後)

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1481年 越前国守護朝倉孝景が分国法『朝倉孝景条々』を遺し死去、嫡子朝倉氏景が家督相続

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1481年 [越中一向一揆]加賀守護富樫政親に弾圧され越中瑞泉寺に逃込んだ蓮乗(蓮如の次男)ら一揆衆を福光城主石黒光義が攻撃するが返討ちに遭い越中砺波郡は一向一揆の支配下に置かれる

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1483年 [都鄙合体・享徳の乱終息]太田道灌の活躍により古河公方足利成氏・長尾景春が降伏し30年に及んだ関東大乱が終息するが、道灌率いる扇谷上杉氏の権勢が関東管領山内上杉顕定を凌駕し両上杉家の対立抗争が勃発、主君の扇谷上杉定正にも警戒された道灌は『太田道灌状』で「山内家が武蔵・上野両国を支配できるのは、私の功である」と憤慨

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1485年 細川政元の後援により山城の国人が結束し山城国一揆が勃発、畠山義就・政長の両派を国外に追放

1486年 扇谷上杉定正が権臣太田道灌を相模糟屋館に招き騙し討ちで殺害(享年55)(北条早雲の謀略説あり)、柱石を失った関東諸豪は再び動揺し山内・扇谷の両陣営に分れ再び争乱に突入(長享の乱)(共倒れの途を辿った両上杉家は道灌末期の「当家滅亡」の叫びどおり60年後に北条氏康に滅ぼされる)

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1486年 越前国守護朝倉氏景が死去、4歳の嫡子貞景が家督相続

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交遊録

朝倉孝景(英林) 父・朝倉家当主
朝倉氏景 長兄・朝倉家当主
朝倉貞景 氏景嫡子・朝倉家当主
朝倉景紀 貞景四男・養嗣子
朝倉孝景(宗淳) 貞景嫡子・朝倉家当主
朝倉義景 孝景(宗淳)嫡子・朝倉家当主
朝倉景冬 父を支えた勇将・叔父にして舅
朝倉景豊 謀反し滅ぼされた景冬嫡子・義兄
朝倉元景 謀反し滅ぼされた孝景(英林)五男
朝倉景職 朝倉軍重鎮
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