著名自分史「山中鹿介」

オリジナル

山中 鹿介

やまなか しかのすけ

山中 鹿介

1545年~1578年

60

「七難八苦を授けたまえ」と月に祈り一騎打ちで武名を上げ、3度も尼子再興軍を結成して毛利氏に挑み、最後は織田信長に見捨てられ上月城合戦で敗死した不撓不屈の勇将にして忠君愛国の代名詞

寸評

基礎点 60点 山中鹿介幸盛は、「七難八苦を授けたまえ」と月に祈り一騎打ちで武名を上げ、3度の尼子再興軍で毛利氏に挑み、最後は織田信長に見捨てられ上月城合戦で敗死した不撓不屈の勇将である。江戸時代を通じて軍記物や講談で人気を偶像化され、頼山陽・勝海舟・板垣退助などから絶賛され、第二次大戦期には教科書にも採用され忠君愛国の代名詞となった。山中鹿介は、尼子経久死の4年後に尼子一族山中家に生れ、8歳にして人を斬り、13歳の初陣で首を得る早熟ぶりを発揮した。病弱な兄に代わって山中家の家督と「三日月の前立と鹿の角の脇立のある冑」を相続すると、毛利の豪傑菊池音八・品川大膳を一騎討ちで討取り、怖気ずく重臣連を叱咤して特攻作戦を画策したが、1566年21歳のとき出雲月山富田城が陥落し戦国大名尼子氏は滅亡した。諸国遍歴に出た山中鹿介・立原久綱ら尼子残党は、京都東福寺にいた尼子勝久を還俗させて主君に担ぎ、1569年大友宗麟・山名祐豊の支援を得て挙兵、毛利の北九州攻めの虚を衝いて出雲・石見・伯耆を席巻するが富田城を落とせず、大友と和睦した毛利の大軍が来襲、渦中に毛利元就は死去したが、猛将吉川元春に敗北した(第一回尼子再興)。臣従を偽って助命された山中鹿介は、監視の目を潜って伯耆尾高城を脱走、諸浪人を集めて尼子再興軍を再結成し、海賊働きで軍資金を蓄え、山名豊国に加勢して鳥取城の逆臣武田高信を討って東因幡を制圧するが、豊国が毛利方に寝返り、但馬の山名祐豊も毛利と和睦、若桜鬼ヶ城で奮戦するも挽回ならず逃走した(第二回尼子再興)。山中鹿介と尼子再興軍は、織田信長に臣従し、明智光秀に属して転戦した後、豊臣秀吉の中国侵攻軍に加えられた。そして1578年、攻略した播磨上月城の守将に任じられるが、三木城主別所長治を寝返らせた毛利の大軍が来襲、上月城は織田信長の命で見捨てられ尼子勝久一族悉く自刃し降伏開城、山中鹿介は斬殺された(第三回尼子再興)。尼子再興軍を承継した部下の亀井茲矩は、徳川家康に転じて4万石の大名となった。清酒の発明から大名貸しで日本屈指の財閥となった鴻池家には、鹿介の遺児山中幸元を家祖とする伝承がある。

史実

1545年 尼子一族で出雲白鹿城主の山中満幸の次男に山中鹿介幸盛が出生

1546年 [河越夜戦(日本三大奇襲)]北条氏康と関東管領上杉憲政・上杉朝定・古河公方足利晴氏(氏康の妹婿)の連合軍が武蔵河越で決戦、圧倒的寡勢の北条軍は「地黄八幡」北条綱成の奇襲で完勝し、朝定敗死で扇谷上杉氏は滅亡・上野平井城に落延びた憲政の山内上杉家も没落・晴氏は幽閉され氏康が立てた傀儡の次男義氏(氏康娘婿)に古河公方職を奪われ、祖父早雲以来の悲願である打倒上杉氏を果した北条氏康は関東制覇を睨み越後長尾(上杉謙信)・常陸佐竹・安房里見と対峙

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1546年 河越夜戦で関東管領山内上杉憲政に従った上野箕輪城主長野業正が北条氏康に敗れ嫡子吉業を喪うが「箕輪衆」を結束させ西上野の支配圏を堅持(上杉家臣の大胡氏・上泉伊勢守信綱らも長野氏に臣従)、業正は憲政を保護した越後の長尾景虎(上杉謙信)に臣従し北条氏康・武田晴信(信玄)と対峙

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1546年 [舎利寺の戦い]細川晴元に反逆した将軍足利義晴・細川氏綱・細川政国・遊佐長教の反乱を三好長慶の阿波勢と六角定頼の近江勢が制圧、義晴は逃亡先の近江坂本で隠居し10歳の嫡子足利義輝に13代室町将軍を継がせる(2年後に義晴は晴元と和解して京都に戻り晴元は義輝の将軍就任を承諾する)

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1546年 毛利元就が形式上隠居し嫡子毛利隆元を当主に据える、正妻妙玖(吉川家当主興経の叔母)死去

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1546年 山中満幸が死去

1547年 寝返りの常習者吉川興経が毛利元就の仲介で大内義隆に帰順するが家臣団の反抗で強制隠居、毛利元就は次男を養嗣子に入れ新当主吉川元春を擁立(3年後に興経と一族を殺害)、毛利氏は養子戦略(毛利の両川体制)により安芸一国を制圧

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1548年 毛利元就が毛利隆元・吉川元春・小早川隆景を伴い山口の大内義隆を伺候、美少年の隆元は男色家の義隆に寵遇され養女と婚約、武勇の吉川元春と陶隆房(晴賢)は義兄弟の盟を結ぶ

1548年 連戦連勝の長尾景虎(上杉謙信・長尾為景の子)が家臣・国人衆に推戴され家督と越後守護代を承継(兄長尾晴景は隠居)、2年後に傀儡守護の上杉定実が後嗣無く死去し室町将軍足利義輝から越後国主の承認を受け、翌年坂戸城の戦いで上田長尾政景を降して22歳で越後国統一を達成

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1549年 [キリスト教伝来]イエズス会のフランシスコ=ザビエルが鹿児島に上陸、薩摩国主島津貴久は布教を許すが仏教界の反対に遭って獲得信者は150人のみ、期待した南蛮船も入航せず貴久は布教を禁止、ザビエル一行は全国布教許可を得るため上洛するが京都の荒廃と足利将軍の権威失墜に失望して在京15日で退去し再び西下、仰々しい装いに改めた効果で肥前平戸の松浦隆信・周防山口の大内義隆・豊後府内の大友義鎮(宗麟)から歓待され、各領内に布教体制を築いてインドへ去る(日本滞在は2年余)

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交遊録

山中満幸 早世した父
山中幸元 鴻池財閥を築いた嫡子
立原久綱 叔父・尼子再興軍参謀
亀井茲矩 大名に出世した尼子再興の盟友
尼子経久 偉大な尼子家祖
尼子政久 惜しくも早世した経久嫡子
尼子晴久 毛利に大逆転を許した政久嫡子
尼子義久 毛利に降伏した晴久嫡子
尼子倫久 晴久次男
尼子秀久 晴久三男
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