著名自分史「尼子経久」

オリジナル

尼子 経久

あまご つねひさ

尼子 経久

1458年~1541年

80

流浪の身から父が治めた出雲を奪回し、大内・山名・浦上氏領を切取って山陰・山陽11ヶ国に君臨した戦国初期の謀略王、没後25年で家を滅ぼされ毛利元就の引立て役に落ちたが瞠目すべき天才武将

寸評

基礎点 80点 尼子経久は、流浪の身から父が治めた出雲を奪回し、大内・山名・浦上氏領を切取って山陰・山陽11ヶ国に君臨した戦国初期の謀略王、死の25年後曾孫の代に元配下の毛利元就に滅ぼされた。京極家家臣で出雲守護代の尼子清定の嫡子に生れ、前半生は不詳だが、税収横領の罪で征伐され流浪生活を送り、1500年42歳のとき月山冨田城を攻め落とし守護塩冶掃部介を討取って出雲を制圧、家督争いに敗れた主家の京極政経を保護したが後継者の吉童子丸を排除した(おそらく謀殺)。一説には、窮乏の流浪生活を経て出雲に舞い戻り、旧臣山中勝重(鹿介の先祖)と鉢屋(賤視された遊芸民)を従え、元旦の千秋万歳と偽って城内に潜入する奇計を用いたという。山陽の盟主大内義興の上洛不在に乗じて近隣諸国へ侵出、石見西部・備後・備中・備前まで勢力を伸ばした尼子経久は、1523年毛利元就の活躍で安芸を勢力圏に収め(鏡山城の戦い)、翌年伯耆も制圧したが、大内・山名の提携成って挟撃の危機に立たされ、1527年陶晴賢率いる大内軍に敗れて安芸・備後の支配権を失い(細沢山の戦い)、西出雲を治める三男塩冶興久の謀反が起って家勢は衰えた。西国統治の特徴で、配下の国人衆は直接の家臣団ではなく、支配力は脆弱であった。大内氏と和睦した尼子経久は、浦上攻めに転じて美作を攻略するが、安芸の盟主に成長し山内方へ寝返った毛利元就の蠢動に悩まされ、1537年嫡孫晴久に家督を譲り隠居した。尼子晴久は、播磨に出征するも背後を脅かされて撤退し、1541年武田信実を担いで大軍で吉田郡山城を攻囲するが毛利元就の計略と大内家陶晴賢の援軍によりまさかの大敗(吉田郡山城の戦い)、その渦中に尼子経久は月山冨田城で病没した。2年後、勢い付いた大内義隆は大軍を率いて出雲に攻め返すが指揮能力欠如により壊滅的大敗(月山富田城の戦い)、尼子勢は息を吹き返し石見銀山も奪回したが、尼子晴久が病死し、陶晴賢を滅ぼして大内領を征した毛利元就が怒涛の進撃、5年に及ぶ籠城戦の末に1566年尼子義久が降伏開城し戦国大名尼子氏は3代で滅亡した。(第二次月山富田城の戦い)。

史実

1458年 近江源氏佐々木(京極)氏の被官で出雲守護代・月山富田城主の尼子清定の嫡子に尼子経久が出生

1464年 男児のない将軍足利義政が弟の浄土寺義尋を還俗させて足利義視とし養嗣子に擁立、伊勢新九郎長氏(北条早雲)が近侍となる

1465年 将軍足利義政と正室日野富子の間に足利義尚が出生、足利義視派との継嗣争いが発生

1467年 [応仁の乱]将軍家と斯波・畠山両管領家の家督争いから京都で戦争が勃発、全国諸大名が細川勝元(東軍)と山名宗全(西軍)に分れ11年に及ぶ全国規模の内乱に発展

1468年 雪舟が本場中国で水墨画を学ぶため大内政弘・室町将軍足利義政・管領細川勝元が明へ派遣した勘合貿易船(正使は天與清啓)に同乗を許され渡海、夏珪・李唐など宋・元代の水墨画に感化されて模写に励み揚子江流域など中国各地で風景を写生し「風景こそ最大の師」の境地に到達、天童山景徳禅寺で「四明天童山第一座」の尊称を贈られ首都北京でも画名を博し2年弱の滞在を終えて帰国し周防山口を拠点に豊後や石見へも足を伸ばす

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1470年 [京極騒乱]応仁の乱の渦中に京極家当主持清が死去、嫡孫の童子丸が後を継ぐが翌年夭逝、政経と高清の間で30年に及ぶ熾烈な家督争いが勃発(京極政経は出雲へ隠遁、勝利した京極高清・六角高頼による南北近江分割統治で決着)

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1471年 本願寺蓮如が興福寺経覚・本覚寺蓮光の援助のもと越前北潟湖畔吉崎山の頂に吉崎御坊を建立(付近の河口荘は経覚の領地で、朝倉孝景の横領に対抗するため蓮如を下向させたとされる)、庶民に分り易い『御文』や「南無阿弥陀仏」の六字名号下付で教線を伸ばし北陸から奥羽の門徒が参集し繁華な寺内町を形成(4年後に蓮如が去り1506年九頭竜川の戦いで越前一向一揆が朝倉宗滴に敗れ破却される)

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1473年 山名宗全・細川勝元が相次いで死去、足利義政は隠居して小河新邸に移り足利義尚が9代室町将軍就任、義尚の生母日野富子が幕府実権を掌握

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1474年 西軍大将の山名政豊(宗全の後嗣)が細川政元の東軍に投降、西軍の畠山義就・大内政弘らが継戦

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1474年 [加賀一向一揆]加賀守護富樫成春の後継争いが発生、次男の富樫幸千代が浄土真宗高田派や越前守護代甲斐敏光と結び一旦勝利するも嫡子の富樫政親が本願寺蓮如の力添えで幸千代一派を追放し加賀守護職を奪取、宗徒が暴徒化し一向一揆へ発展すると政親は弾圧に転じ一揆勢は越中瑞泉寺に退避、蓮如は一揆を扇動した下間蓮崇を破門して吉崎御坊から逃れ小浜、丹波、摂津を経て河内出口に寓居する

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交遊録

尼子清定 野垂れ死んだ父
尼子久幸 吉田郡山城の戦いで戦死した糟糠の弟
尼子政久 惜しくも早世した嫡子
尼子晴久 後継の政久嫡子
尼子義久 毛利に降伏した晴久嫡子
尼子国久 晴久が殺した武勇の次男
尼子誠久 晴久が殺した国久嫡子
尼子勝久 山中鹿介が担いだ誠久五男
塩冶興久 謀反した三男
尼子清久 毛利に与した興久後嗣
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