著名自分史「徳川家康」

オリジナル

徳川 家康

とくがわ いえやす

徳川 家康

1542年~1616年

100

旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者

寸評

基礎点 70点 徳川家康は、旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者である。西三河を征した祖父松平清康の急死で父広忠は今川氏に臣従、6歳で人質に送られるも家臣の裏切りで織田信秀に売られ、人質交換で命拾いして今川家に移された。属国松平家は虐待され合戦ごと最前線の危地に送られたが、この忍苦で培われた三河武士の忠誠心と団結力、戦争経験は躍進の原動力となった。今川一族の娘(築山殿)を妻に迎え、11年の人質生活を終えて岡崎に帰還、初陣で三河の織田方諸豪を掃討するが領地返還は叶わなかった。1560年、武田・今川と同盟し背後を固めた今川義元が4万の上洛軍を起して尾張に侵攻、家康は「大高城の兵糧入れ」で武名を上げたが、織田信長の奇襲により義元討死(桶狭間の戦い)、「捨て城を拾って」岡崎城に入り悲願の独立を達成、三河の織田勢を一掃するが、凡愚な今川氏真を見限って信長と同盟、今川攻めに転じた。1564年、家臣の多くが叛逆し生命を脅かさた三河一向一揆を辛くも鎮圧し、吉田城攻略で三河一国を完全制圧、賀茂姓松平から通りの良い源姓徳川に改め、武田信玄と今川領の東西分割を約して遠江へ侵攻、掛川城を落として今川氏を滅ぼし(氏真は保護)、浜松城に移って駿河を征した信玄と対峙した。1570年織田信長に駆出されて浅井・朝倉攻めに遠征、劣勢の織田軍を救って姉川合戦を勝利に導いた。1572年、上杉氏・後北条氏との和睦で後方の安全を確保した武田信玄が上洛挙兵、三河は通過して織田信長との決戦に臨む腹であったが、若い徳川家康は武士の面目を賭けて挑戦、大敗を喫して浜松城に逃げ帰るが幸運にも追撃は無く九死に一生を得た(三方ヶ原の戦い)。しかし武田信玄急死で信長包囲網は瓦解、信長に従って浅井・朝倉征伐に奮戦し、1575年武田勝頼が三河に侵攻すると信長を強迫出陣させて長篠の戦いで撃退、築山殿謀反・嫡子信康切腹の悲劇を乗越え、1582年甲州征伐の先陣を切って武田家を討滅した。
30点 徳川家康は少数の従者と堺見物中に本能寺の変に遭遇、切腹も覚悟したが、服部半蔵の手引きで伊賀越えし生還、途中別れた穴山信君は落ち武者狩りに殺された。混乱に乗じた北条氏政が滝川一益を追い払って上野を征し織田領に雪崩れ込み、上杉景勝も牙を剥き三つ巴戦となったが(天正壬午の乱)、和睦成って甲斐・信濃を制圧した徳川家康は三河・遠江・駿河と合わせて五ヶ国の太守となり、豊臣秀吉に対峙した。清洲会議、賤ヶ岳合戦は静観したが、1584年織田信雄に加担し挙兵、池田恒興・森長可の奇襲軍を殲滅し優位に立つも、愚かな信雄が無断で単独講和、名目を失って停戦に応じた(小牧・長久手の戦い)。天下統一を急ぐ秀吉は宥和路線に切替え、母と妹を人質に送られた家康は遂に膝を折り、以後は織田信長同様に律儀に仕えた。1590年、九州征伐を終え西日本を平定した秀吉は小田原征伐を開始、北条氏に近い家康は早期降伏を促すが氏政・氏直(娘婿)父子は拒絶、結局降伏開城するも滅ぼされた。秀吉は強敵家康から駿遠三甲信の5カ国150万石を召上げ、北条氏旧領の関八州250万石へ移封、東海道筋に子飼い大名を連ね会津に蒲生氏郷を配して封込策に出たが、家康は黙って従い江戸の都市開発に励んだ。朝鮮出兵を無傷で過ごし、1598年豊臣秀吉が死去、抑え役前田利家も翌年亡くなると、健康オタク徳川家康の独壇場となった。豊臣家の内部分裂に乗じて加藤清正・福島正則・黒田長政ら反石田三成・淀殿派の首領に納まり、勝手な婚姻政策で結束を固めると、1600年会津征伐の罠に掛かった石田三成が挙兵、小早川秀秋・吉川広家の寝返りを誘って関ヶ原合戦に勝利すると、1603年徳川幕府開設、2年後秀忠に将軍を譲り徳川氏世襲を世に示した。西軍諸将には大鉈を振るったが、本人の実力と為政者の都合で領地を入替えた信長流を廃し世襲藩固定化で外様大名を安心させつつ、政権運営は将軍家と小身の譜代衆が握り、参勤交代や天下普請で抵抗力を削ぎ、下々にも現在身分の凍結を強制して太平秩序を醸成した。1615年大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼして後顧の憂いを絶ち、翌年75歳で大往生を遂げた。

史実

1542年 徳川家康(竹千代)が西三河の土豪松平広忠の嫡子として出生(家祖の松平親氏は三河松平郷の庄屋家に婿入りした遊芸僧の徳阿弥、家康の祖父松平清康の代に西三河を制圧したが、清康急死で零落し織田信秀に圧迫された広忠は今川義元に臣従)

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1543年 [鉄砲伝来]倭寇の頭目王直(五峯)の明船がポルトガル人を乗せて種子島に来航、領主の種子島恵時・時尭父子は火縄銃2挺を購入し刀鍛冶の八板金兵衛に命じて複製に成功、貿易商人を通じて忽ち畿内へ伝播し早くも同年中に和泉堺・紀州根来寺・近江国友などで鉄砲製造がスタート、鉄砲と硝石の調達・鉄砲鍛冶の獲得・鉄砲隊の調練は戦国大名の軍事戦略の要諦となる

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1544年 土岐政頼と土岐頼芸が打倒斎藤道三で和解・連携し越前朝倉孝景・尾張織田信秀の加勢を得て南北から美濃国に侵攻、斎藤道三は防衛に成功し政頼を革手城に・頼芸を揖斐北方城に迎え入れる条件で停戦合意

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1545年 [河東一乱]駿河・遠江守護今川義元が関東管領山内上杉憲政や扇谷上杉朝定(朝興後嗣)と連携し富士川を越えて東駿河へ侵攻、北条綱成の武蔵河越城も攻囲され北条氏康は挟撃の危地に陥るが、武田晴信(信玄)の斡旋で河東地域割譲を条件に今川と和睦し河越城救援に向かう

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1546年 [河越夜戦(日本三大奇襲)]北条氏康と関東管領上杉憲政・上杉朝定・古河公方足利晴氏(氏康の妹婿)の連合軍が武蔵河越で決戦、圧倒的寡勢の北条軍は「地黄八幡」北条綱成の奇襲で完勝し、朝定敗死で扇谷上杉氏は滅亡・上野平井城に落延びた憲政の山内上杉家も没落・晴氏は幽閉され氏康が立てた傀儡の次男義氏(氏康娘婿)に古河公方職を奪われ、祖父早雲以来の悲願である打倒上杉氏を果した北条氏康は関東制覇を睨み越後長尾(上杉謙信)・常陸佐竹・安房里見と対峙

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1546年 河越夜戦で関東管領山内上杉憲政に従った上野箕輪城主長野業正が北条氏康に敗れ嫡子吉業を喪うが「箕輪衆」を結束させ西上野の支配圏を堅持(上杉家臣の大胡氏・上泉伊勢守信綱らも長野氏に臣従)、業正は憲政を保護した越後の長尾景虎(上杉謙信)に臣従し北条氏康・武田晴信(信玄)と対峙

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1546年 [舎利寺の戦い]細川晴元に反逆した将軍足利義晴・細川氏綱・細川政国・遊佐長教の反乱を三好長慶の阿波勢と六角定頼の近江勢が制圧、義晴は逃亡先の近江坂本で隠居し10歳の嫡子足利義輝に13代室町将軍を継がせる(2年後に義晴は晴元と和解して京都に戻り晴元は義輝の将軍就任を承諾する)

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1547年 三河岡崎城主松平広忠が6歳の嫡子竹千代(徳川家康)を今川義元へ人質に送るが、駿府へ護送中に家臣戸田康光が裏切り織田信秀に売却、信秀は臣従を強要するが広忠は拒絶、竹千代は危うくも生かされ2年間を尾張で過ごす(織田信長と会った可能性が高い)

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1547年 [加納口の戦い]斎藤道三が尾張織田信秀の侵攻軍を撃破し美濃一国を完全平定、土岐政頼自害・土岐頼芸の越前朝倉家亡命で美濃守護土岐氏は滅亡

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1548年 連戦連勝の長尾景虎(上杉謙信・長尾為景の子)が家臣・国人衆に推戴され家督と越後守護代を承継(兄長尾晴景は隠居)、2年後に傀儡守護の上杉定実が後嗣無く死去し室町将軍足利義輝から越後国主の承認を受け、翌年坂戸城の戦いで上田長尾政景を降して22歳で越後国統一を達成

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交遊録

松平清康 家康祖父
松平広忠 家康父
松平信康 家康が自害させた嫡子・本多忠政舅
松平秀康 家康が出生を疑い養子に出した次男
松平忠直 家臣虐殺の狂人・秀康後嗣
徳川秀忠 家康が三男・2代将軍
徳川家光 秀忠嫡子・3代将軍
徳川忠長 叛逆した秀忠次男
保科正之 幕府の礎を築いた秀忠の隠し子
松平忠吉 家康四男・井伊直政娘婿
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