著名自分史「広田弘毅」

オリジナル

広田 弘毅

ひろた こうき

広田 弘毅

1878年~1948年

20

右翼結社・玄洋社員として外務官僚となり、日中戦争拡大の最重要局面で首相・外相の座にあって軍部と右翼に迎合して亡国へのお膳立てをしたキーパーソン

寸評

基礎点 20点 広田弘毅は東大法学部を出て外務官僚となり福岡玄洋社の先輩で「対外硬」急先鋒の山座円次郎に属し累進、斎藤実・岡田啓介内閣の外相を経て二・二六事件後の混乱期に首相となった。福岡箱崎の石屋の倅から首相へ成上がった努力と才能は素晴らしいが、広田弘毅内閣は軍部抑制どころか軍部大臣現役武官制の復活・日独防共協定調印・「北守南進政策」の決定・海軍軍縮条約廃棄と、日本を亡国の対米開戦を誘うターニングポイントとなった。さらに続く第一次近衛文麿内閣で外相に復帰した広田弘毅は近衛首相と共に強硬外交を推進、当事者の陸軍さえ日中戦争講和へ傾くなか和解工作を蹴って自ら泥沼へはまり「近衛声明」で欧米列強を挑発し引くに引けない立場へ追込まれた。広田弘毅は国際知識をもって軍部を律すべき外交官ながら、単に軍部に引きずられたというだけでなく一層強硬な玄洋社流右翼外交を主導、東京裁判で文官唯一の死刑に処されたが、連合国への責任はともかく、最重要イベントの日中戦争泥沼化に果した役割は極めて重く同情の余地は乏しい。愛妻家で温厚な人柄や本心の平和主義はともかく、広田弘毅は近衛文麿・松岡洋右と並ぶ亡国のキーマンといわざるを得ないだろう。

史実

1878年 福岡県那珂郡鍛冶町で石材商を営む林徳平の嫡子に広田弘毅が出生

1878年 林徳平が広田家の夫婦養子となる

1879年 玄洋社設立

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1889年 大隈重信外相が玄洋社来島恒喜に襲撃される

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1898年 広田弘毅が玄洋社の援助を得て上京し第一高等学校に入学

1903年 広田弘毅が東京帝国大学法学部政治学科に入学

1904年 広田弘毅が外務官僚の山座円次郎の勧めで朝鮮・満州・シベリアへ軍事偵察旅行

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1904年 日露戦争開戦

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1905年 広田弘毅が東京帝国大学法学部を卒業、最初の外交官試験に失敗

1905年 孫文が東京で中国同盟会を結成

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交遊録

平岡浩太郎 玄洋社仲間
頭山満 玄洋社仲間
内田良平 玄洋社仲間
月成功太郎 玄洋社仲間
山座円次郎 大恩人
小村寿太郎 山座のボス
大隈重信 対外硬仲間
加藤高明 対外硬仲間
松岡洋右 対外硬仲間
幣原喜重郎 上司
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