著名自分史「岡田啓介」

オリジナル

岡田 啓介

おかだ けいすけ

岡田 啓介

1868年~1852年

60

叩き上げの水雷屋から、海軍内部の調整役として斎藤実の後継首相となったが二・二六事件で退陣、大戦の最終局面で東條英機内閣打倒に動いた終戦の功労者

寸評

基礎点 60点 岡田啓介は海軍兵学校15期へ進んだが素行不良で成績も中位、山本権兵衛に目を掛けられた同期主席の財部彪(山本の女婿)や17期の秋山真之に大きく水を空けられた。艦隊勤務から横須賀海兵団の軍楽隊に左遷された岡田啓介は腐って昼寝ばかりしていたが、欠員補充で東郷平八郎艦長の巡洋艦「浪速」の砲術士官に回され「高陞号撃沈事件」に遭遇し日清戦争に出征、日露戦争では重巡洋艦「春日」の副長として日本海海戦を戦い、第一次大戦では第二水雷戦隊司令官として青島攻略戦に参加した。岡田啓介は叩き上げの「水雷屋」で政治とは無縁だったが、シーメンス事件で海軍上層部が失脚したため海軍省に呼ばれ人事局長に就任、艦政本部長から財部彪海軍大臣の次官へ上り司令長官ポストを経て田中義一内閣で海相に栄達した。ロンドン海軍軍縮条約を巡り統帥権干犯問題が起ると、無派閥の岡田啓介は条約派(国際協調)と艦隊派(反英米軍拡)の調整に奔走したが、海相に復した条約派のエース財部彪は予備役に追込まれ東郷平八郎・伏見宮博恭王を擁する艦隊派が主導権を握った。海軍青年将校が五・一五事件を起し事態収拾のため条約派の斎藤実が組閣すると岡田啓介は調整役を期待され海相に復帰、陸軍と右翼の攻撃(帝人事件)で斎藤内閣が倒れると岡田に組閣の大命が下された。満州事変後の軍拡景気で日本は逸早く世界恐慌を脱し、天皇機関説問題や国体明徴運動の扇動で国民が軍国主義に染まるなか、岡田啓介首相は母体である海軍の艦隊派にも突上げられ防戦一方、二・二六事件で一命を拾うも思考停止に陥り政権を投出した。広田弘毅・近衛文麿内閣が軍部に追従し傷口を拡げるなか、岡田啓介は重臣会議に列し米内光政・鈴木貫太郎ら海軍良識派を後援したが伏見宮博恭王ら艦隊派の優位は動かせなかった。対米開戦の大詰めで東郷茂徳外相からの海軍内強硬派の説得要請を黙殺した岡田啓介であったが、敗戦必至の状況に陥ると米内光政・鈴木貫太郎と共に東條英機内閣を倒し、鈴木内閣の終戦工作をサポート、サンフランシスコ平和条約の発効・GHQ解散を見届け世を去った。

史実

1868年 福井藩士岡田喜藤太の嫡子に岡田啓介が出生

1884年 岡田啓介が旧制福井中学を卒業

1885年 岡田啓介が叔父の青山貞を頼って上京し海軍兵学校(15期)に入学

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1888年 鎮台制を師団制に改編

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1889年 岡田啓介が海軍兵学校を卒業し艦隊勤務に就く

1889年 大日本帝国憲法発布

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1889年 川上操六がドイツから帰国し参謀本部次長に復職、独軍参謀総長モルトケ直伝のドイツ式軍制改革や参謀本部強化を推進

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1891年 山本権兵衛が西郷従道海相のもと海軍省大臣官房主事に就き海軍の分離独立改革を断行

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1893年 日清戦争準備の作戦会議、伊藤博文首相が川上操六(陸軍)・山本権兵衛(海軍)の開戦論を採用

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1893年 海軍軍令部設置

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交遊録

山本権兵衛 海軍の父
広瀬武夫 海兵同期
財部彪 海兵同期
斎藤実 海軍仲間
加藤友三郎 海軍仲間
鈴木貫太郎 海軍仲間
安保清種 海軍仲間
大角岑生 海軍仲間
米内光政 海軍仲間
山本五十六 海軍仲間
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