著名自分史「利根川進」

オリジナル

利根川 進

とねがわ すすむ

利根川 進

1939年~-年

70

分子生物学を志し京大から渡米してダルベッコ門下に連なり免疫学100年の謎「抗体の多様性」の解明で日本人初のノーベル生理学・医学賞を獲得、次なる未解明分野を求めMIT・理研で世界の脳研究をリード

寸評

基礎点 70点 利根川進は、免疫学100年の謎「抗体の多様性」を解明し日本人初のノーベル生理学・医学賞を受賞した分子生物学者である。祖父も父も帝大卒の機械工学者という秀才一家に育った利根川進は、日比谷高校から一浪で京大理学部へ進み、ジャコブとモノーの遺伝子発現の制御メカニズム「オペロン説」に衝撃を受け「生命を分子の言葉で語る」分子生物学を志した。1963年利根川進は京大大学院へ進んだが、渡邊格教授の推薦でUCSD留学の機会に恵まれ僅か2ヶ月で渡米、博士号を得て1969年ソーク研究所へ移りレナート・ダルベッコのもと遺伝子調節プロセスの研究を開始した。ダルベッコは1975年にノーベル賞を獲得しソーク研究所は5人の受賞者を輩出、利根川進の在籍期間は2年に満たなかったが切磋琢磨で才能を開花させ強力なダルベッコ人脈に連なった。1971年利根川進は留学ビザの期限切れで一時帰国も考えたが、ダルベッコの勧めでスイスのバーゼル免疫学研究所へ移籍、「一時避難のつもり」が飛躍の契機となった。10万個も無い遺伝子から100億種類以上の抗体ができるのは何故か…「抗体の多様性」の問題は「神のミステリー」といわれ、抗体の遺伝子情報も親から受継ぐとする「生殖細胞系列説」と体細胞の分化過程で遺伝情報に変化が起るとする「体細胞系列説」が免疫学界を二分し100年も論争が続いていた。大御所の加担で前説が優勢だったが、利根川進は無成果失職に脅えつつ粘り強く塩基配列と「ドライヤー・ベネット仮説」を検証し後説の証明に成功した。遺伝子不変の常識が抗体には該当しないことを実証した利根川進は1976年の論文で一躍スター研究者となり、1981年MIT教授に招かれ、1987年ノーベル生理学・医学賞に輝いた。ハワード・ヒューズ医学研究所招聘の栄誉にも浴したが、自身の大御所化を嫌う利根川進は次なる未解明分野を求め米国が国策に掲げる脳科学へ転身、「MIT学習・記憶研究センター長」に就任し脳研究への遺伝子組換えマウス活用に先鞭を付けた。2015年末現在、利根川進はMIT教授に「理研脳科学総合研究センター長」を兼ね日米で「記憶を分子の言葉で語る」挑戦を続けている。

史実

1939年 京大卒の機械工学技師で天満織物(現シキボウ)に勤める利根川勉の次男利根川進が名古屋市にて出生、大阪市の自宅で育つ

1939年 ノモンハン事件勃発

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1939年 天津事件、アメリカが日米通商航海条約破棄を通告

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1939年 独ソ不可侵条約調印

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1940年 日本が汪兆銘を擁立して南京に中華民国政府を樹立

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1940年 第二次近衛文麿内閣(公家)発足(松岡洋右外相・東條英機陸相)

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1940年 アメリカが対日屑鉄輸出を全面禁止、ABCD包囲網による経済封鎖が本格化

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1940年 近衛文麿内閣が日独伊三国同盟を決定し英米が正面敵となる

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1940年 日本軍が北部仏領インドシナへ進駐し南進政策始動

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1940年 近衛文麿首相が大政翼賛会を結成し総裁就任

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交遊録

レナート・ダルベッコ ソーク研究所の大師匠・ノーベル賞受賞者
サルバドール・ルリア ダルベッコの師匠でMIT招聘の恩人・ノーベル賞受賞者
デビッド・ボルティモア ダルベッコ同門のノーベル賞受賞者
ハワード・テミン ダルベッコ同門のノーベル賞受賞者
ポール・バーグ ダルベッコ同門のノーベル賞受賞者
リーランド・ハートウェル ダルベッコ同門のノーベル賞受賞者
ジェームズ・ワトソン DNA二十らせん構造の発見者、コールド・スプリング・ハーバー研究所所長
デイビット・ボナー UCSD教授
林多紀 UCSD教授
ニールス・ヤーネ バーゼル免疫学研究所所長
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