著名自分史「犬養毅」

オリジナル

犬養 毅

いぬかい つよし

犬養 毅

1855年~1932年

40

慶應義塾グループ・大隈重信派の「バルカン政治屋」として台頭、中継ぎの政友会総裁となり首相に上り詰めたが、五・一五事件に斃れた政党政治の生き字引

寸評

基礎点 50点 犬養毅は慶應義塾グループの言論人として新聞記者から出発し立憲改進党の結党時から参加、大隈重信側近の政治家となり初の政党内閣(第一次大隈内閣)発足に活躍した。その後の犬養毅は、親友の尾崎行雄と共に第一次護憲運動で主導的役割を果し「憲政の神様」と賞賛されたが、実情は少数政党の党首として政友会・同志会系の二大政党の狭間で迷走を続け、最後は政友会に吸収された。自党解消に伴い犬養毅は政界引退を表明したが、田中義一の急死を受け中継役の政友会総裁に担ぎ出され、民政党政権を倒して首相となった。犬養毅は首相在任中に五・一五事件で殺害されたが、以後「挙国一致内閣」が続いたため結果として犬養の死をもって政党内閣は終焉した。
-10点 犬養毅は大隈重信の側近を振出しに長年に渡って政党政治の一線に身を置き元祖「バルカン政治家」として一定の役割を果したが、アジア主義者として孫文の革命運動を支援したことと普通選挙法に功績があった他に特段の業績は無く、政党間の政権争奪戦に執着する余り「統帥権」を持出し軍部に武器を与える失策も犯した。政権にはポストと利権のウマミがあろうが本来は政治理念・政策実現の手段たるべきで、一般大衆にとってはどこが与党だろうが誰が大臣だろうが関係ない。犬養毅に限らず今日に至る政党政治の限界というべきだが、政権のみを目的とする醜争は政治の本質を誤らせ国民の政治意欲減退を招く害悪である。

史実

1855年 備中国賀陽郡庭瀬村の大庄屋犬飼源左衛門の次男に犬養毅が出生

1874年 愛国公党が政府に『民撰議院設立建白書』を提出

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1876年 犬養毅が上京し慶應義塾に入学

1876年 慶應義塾に在学中の犬養毅が郵便報知新聞に入社

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1877年 西南戦争、犬養毅が郵便報知新聞の従軍記者として活躍

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1877年 犬養毅が東洋経済新報に移籍

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1879年 玄洋社設立

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1880年 板垣退助ら土佐派が国会期成同盟結成

1881年 犬養毅が東洋経済新報退社、大隈重信の引きで内閣統計局権少書記官出仕

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1881年 開拓使官有物払下げ事件

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交遊録

大隈重信 大ボス
福澤諭吉 大師匠
尾崎行雄 生涯の盟友
小林一三 慶應OB
栗本鋤雲 良き上司
藤田茂吉 そりの合わない上司
矢野文雄 良き上司
河野敏鎌 大隈の子分
前島密 大隈の子分
末広鉄腸 新聞仲間
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