著名自分史「田中義一」

オリジナル

田中 義一

たなか ぎいち

田中 義一

1864年~1929年

30

陸軍長州閥の領袖ながら政友会総裁に納まって首相に上り詰めたが、張作霖爆殺事件で昭和天皇と陸軍中堅幕僚の板挟みとなった「おらが首相」

寸評

基礎点 50点 田中義一は陸軍長州閥のホープとして陸相に累進、陸軍機密費を持参金に政友会総裁に納まって首相に上り詰めた。憲政会・民政党内閣の幣原喜重郎外相が推進する対英米協調・対中不干渉の「幣原外交」を軟弱外交と激しく批判し、松岡洋右らと共に強硬な「田中外交」を展開し軍国主義化と外征に拍車を掛けた。
-20点 田中義一は山縣有朋から陸軍長州閥を受継いだが、首相在任中に張作霖爆殺事件が起り、究明を求める昭和天皇の意を受け河本大作らの軍法会議に向け動いたが、永田鉄山・石原莞爾ら一夕会系幕僚の策動で陸軍首脳にも背かれ首相辞任でお茶を濁す道を選択、天皇の叱責に悲嘆した田中は間もなく死去した(自殺説あり)。張作霖爆殺事件は陸軍首脳の自重で拡大せず、永田鉄山・石原莞爾らの野望は一旦費えたが、陸軍トップでもある田中義一首相が事件の究明と首謀者の処罰をうやむやにしたことは、満州事変に始まる軍部暴走を誘発する重大な伏線となった。

史実

1864年 長州藩の下級藩士田中七五郎信祐の三男田中義一が萩城下にて出生

1876年 萩の乱、12歳の田中義一は前原一誠の反乱軍に従軍

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1877年 西南戦争、西郷隆盛が鹿児島城山にて自害(享年51)

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1877年 木戸孝允が京都にて死去(享年45)、京都霊山護国神社に葬られる

1883年 田中義一が陸軍教導団から陸軍士官学校に入学(8期)

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1886年 田中義一が陸軍士官学校を卒業し第一師団第一連隊に配属

1888年 鎮台制を師団制に改編

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1889年 大日本帝国憲法発布

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1889年 川上操六がドイツから帰国し参謀本部次長に復職、独軍参謀総長モルトケ直伝のドイツ式軍制改革や参謀本部強化を推進

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1891年 帝政ロシアがシベリア鉄道起工

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