著名自分史「若槻禮次郞」

オリジナル

若槻 禮次郞

わかつき れいじろう

若槻 禮次郞

1866年~1944年

30

桂太郎側近の大蔵官僚として蔵相となり、桂新党を承継して憲政会総裁、首相に上り詰めたが、満州事変にお墨付き与える大失策を犯した元祖官僚政治家

寸評

基礎点 50点 東大法学部を主席で卒業した若槻禮次郞は、大蔵官僚に進んで桂太郎に属し第三次桂太郎内閣で蔵相に栄進、桂が同志会を立上げると幹部入りして政界に転じ、加藤高明の急死に伴い憲政会総裁を継ぎ2度組閣した。首相退陣後は政界の一線を退いたが、終戦まで重臣会議のメンバーを務めた。が、勉強秀才の若槻禮次郞に重要局面をコントロールする力量は無く、時勢に流されるだけに終わった。
-30点 第二次若槻禮次郞内閣は8ヶ月の短命に終わったが、在任の1931年は極めて重大な年であり、切所に政権を担った若槻首相は重大な失策を犯した。組閣後すぐに柳条湖事件が起り満州事変へ拡大、若槻禮次郞内閣は「不拡大方針」を決定し南次郎陸相を突上げたが、林銑十郎司令官の朝鮮軍が越境満州に入ったと聞くと「それならば仕方ないじゃないか」とあっさり追従、満州事変と「越境将軍」の追認を閣議決定したばかりか、戦費の特別予算編成を示唆し軍事予算急拡大を規定路線化した。柳条湖事件ではオッカナビックリだった石原莞爾らは勇気百倍し「満蒙問題解決案」を策定、帰国した板垣征四郎が優柔不断な陸軍首脳を説伏せ若槻禮次郞内閣は「満州国建国方針」を承認、軍部暴走を運命付けた決定的瞬間であった。天皇の「統帥権」を侵した石原莞爾・板垣征四郎・林銑十郎らは軍法会議で極刑に相当する重罪犯だったが、若槻禮次郞内閣の事後承諾で逆に評価される立場となり処罰どころか陸軍中枢への道を歩んだ。金解禁が不況に拍車をかけるなか井上準之助蔵相は金輸出再禁止を拒み続け、満州事変処理で機能停止に陥った民政党内閣は閣内不一致となり若槻禮次郞は首相を投出した。加藤高明内閣より憲政会・民政党政権の外相として対英米協調・対中国不干渉を主導してきた幣原喜重郎(加藤と同じく岩崎弥太郎の娘婿)は政界を去り「幣原外交」は終焉、日本外交の主導権は軍部および松岡洋右・大島浩・白鳥敏夫ら強硬派へ移った。政友会が政権を奪回したが、五・一五事件で犬養毅首相が斃され政党内閣は命脈を絶たれた。右翼やマスコミの軍部礼賛が盛上るなか、石原莞爾らは清朝の溥儀を担出し傀儡満州国を建国、松岡洋右全権が国連脱退のパフォーマンスを演じ日本の孤立化が始まった。民政党総裁を町田忠治に譲った若槻禮次郞は重臣会議に列し、米内光政・岡田啓介らの平和穏健路線を支持した。第二次大戦後、東京裁判検事のジョセフ・キーナンは岡田啓介・米内光政・若槻禮次郞・宇垣一成の四人を「戦前日本を代表する平和主義者」と持上げたが、実際の若槻は身を挺して国難にあたったわけでなく東條英機内閣打倒に一票を投じたに過ぎない。
10点 貧乏足軽の家に生れた若槻禮次郞は、苦学して東大法学部主席卒業を果し藩閥にコネがない不利を乗越え大蔵次官に昇進、その後の蔵相・首相への出世階段は桂太郎に属し政党政治家になったことで開かれたが、それでも身分制の残る当時にあっては偉業というべきだろう。若槻禮次郞は加藤高明に続く帝大卒・官僚出身の首相第二号だが、加藤の栄達が三菱ファミリー故だった点を差引くと、現在まで続く官僚政治家の元祖は若槻としたい。

史実

1866年 松江藩足軽の奥村仙三郎の次男若槻禮次郞が松江雑賀町にて出生

1884年 若槻禮次郞が叔父の学資援助を受け司法省法学校(大学予備門、第一高等中学)に進学

1886年 若槻禮次郞が叔父若槻敬の養子となる

1891年 若槻禮次郞が若槻敬の一人娘トク子の婿養子となる

1892年 若槻禮次郞が帝国大学法科(東大法学部)仏法科を主席で卒業

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1892年 若槻禮次郞が大蔵省出仕

1894年 若槻禮次郞が愛媛県収税長として赴任

1898年 若槻禮次郞が大蔵省主税局内国税課長就任

1904年 日露戦争開戦

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1904年 若槻禮次郞が主税局長兼行政裁判所評定官就任

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交遊録

桂太郎 親分
加藤高明 政党の兄貴分
濱口雄幸 政党の弟分
幣原喜重郎 加藤の義弟
重光葵 幣原外交のホープ
河野広中 政党仲間
大浦兼武 政党仲間
尾崎行雄 政党仲間
片岡直温 不肖の仲間
床次竹二郎 政党仲間
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