著名自分史「加藤高明」

オリジナル

加藤 高明

かとう たかあき

加藤 高明

1860年~1926年

20

外務官僚から外相を歴任し対華21カ条要求等の対外硬路線を主導、岩崎弥太郎の女婿故に政界で重宝がられ、桂太郎の同志会を承継し首相となった三菱のシンデレラ

寸評

基礎点 20点 東大法学部を主席で卒業した加藤高明は、岩崎弥之助に青田買いされ岩崎弥太郎の長女春治と結婚し三菱社員となったが、陸奥宗光外相の引きで外務官僚に転じ駐英公使・大使として日清戦争と条約改正に奔走、第四次伊藤博文内閣に外相で初入閣した。「対外硬」急先鋒の加藤高明は桂太郎内閣の日露戦争講和を「軟弱外交は失敗した」と攻撃し世論を扇動、国際関係の悪化を招き西園寺公望内閣で外相辞任に追込まれたが、なんと桂太郎に鞍替えして外相に返咲き、第二次大隈重信内閣の第一次世界大戦参戦と「対華21カ条要求」で主導的役割を果した。国際常識を無視した対華21カ条要求の暴挙は、当然ながら列強に圧殺され国内向けパフォーマンスに終始したが、日中戦争泥沼化と今日まで続く「反日」の元凶となり末代まで禍根を残した。加藤高明は伊藤博文・陸奥宗光に属したが、政友会総裁を継いだ西園寺公望に対外硬を敬遠されると駐英大使・外相の餌に釣られ桂太郎に乗換え、桂の急死で打算が狂ったが桂の同志会(憲政会)を継ぎ反政友会政党の首領に納まった。西園寺公望が唯一の元老となり首相指名権を握ると「苦節十年」寝返りのツケを払わされたが、宿敵の政友会と合同して清浦奎吾の「超然主義内閣」を倒し念願の首相職を手に入れた(護憲三派による第二次護憲運動)。加藤高明は帝大卒・官僚出身の首相第一号、後継の若槻禮次郞が第二号である。外相ポスト欲しさに伊藤博文・大隈重信・桂太郎(山縣有朋)の間を浮遊し、首相ポスト欲しさに政友会と手を組んだ加藤高明の無節操はむしろ見事だが、金権政治が進むなか三菱の財力ゆえに不誠実が許されチヤホヤされ続けたとも言える。政権目当ての「護憲三派体制」はすぐに崩壊し2年後に加藤高明首相は急死、後継の若槻禮次郞・濱口雄幸が組閣したが政友会との政権争い明け暮れ、政治ソッチノケの二大政党の対立抗争は政党政治の崩壊を招いた。なお、加藤内閣で成立した普通選挙法は原敬・犬養毅・尾崎行雄ら政党人の努力の結晶であり、加藤高明に個人として特筆すべき業績は無い。

史実

1860年 尾張藩の下級藩士服部重文の次男加藤高明が海東郡佐屋にて出生

1872年 服部総吉(加藤高明)が親戚の加藤家に入嗣

1873年 岩崎弥太郎が三菱商会を設立

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1881年 加藤高明が帝国大学法科(東大法学部)を主席で卒業

1881年 加藤高明が三菱に入社し海運業研究のためイギリス遊学

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1881年 開拓使官有物払下げ事件

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1881年 明治十四年の政変

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1882年 薩長藩閥政府が岩崎弥太郎の郵便汽船三菱会社に「第三命令書」を交付し事業妨害

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1882年 福澤諭吉・慶應義塾派が立憲改進党を結成し大隈重信を党首に担ぐ

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1882年 西郷従道・黒田清隆ら薩摩閥と井上馨が三菱潰しのため共同運輸会社を設立

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交遊録

岩崎春路 妻にして出世の糸口
岩崎弥太郎 岳父
岩崎弥之助 三菱二代目
岩崎久弥 三菱三代目
岩崎小弥太 三菱四代目
幣原喜重郎 三菱の相婿
陸奥宗光 偉大なボス
伊藤博文 政治の親分
西園寺公望 嫌われたので桂に乗り換え
伊東巳代治 東日の買収相手
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