著名自分史「原敬」

オリジナル

原 敬

はら たかし

原 敬

1856年~1921年

30

結婚で長州閥に食込み、首相に上り詰めて「初の本格的政党内閣」を実現したが、政党政治の限界を示す役割を演じた虚構の平民宰相

寸評

基礎点 50点 原敬は、結婚によって長州閥に食込み井上馨や伊藤博文の庇護を受けて長州閥に連なる有力政治家に成長、伊藤から引継いだ政友会を絶対多数党に育て「初の本格的政党内閣」を実現した。ただ、軍部・財界との妥協や巧みな寝技で多数派工作には成功したものの、政党政治が担うべき民主主義においてはむしろ後退、「政党政治=民主政治」の誤解を戒める事実として、また玉虫色の政治的妥協による多数党支配が国民に幸福をもたらさないことを、後世は原敬に学ぶべきであろう。
-20点 「平民宰相」の登場に世論は期待したが、原敬内閣の政策は決して民衆のためのものではなく、資本家と軍閥の側に立つものであり、党勢拡大のために利権を求め、官僚と妥協し、軍閥のドン山縣有朋と提携した。軍部懐柔のため国防の充実を掲げて急激な軍事費予算増大を推進、安易な増税と公債を財源としたため当然ながらインフレが発生し小作争議や労働ストライキが頻発、原敬内閣は治安警察法によって民衆の抵抗を弾圧した。原敬首相は、閣僚3人が政商と結託し株の不正売買を行った「大正のリクルート事件」が発覚すると議会の絶対多数により強引に握り潰した。歴史的に見ると、原敬内閣は政権獲得と党勢拡大の視野狭窄に陥って「政治」を見ない政党政治の限界を示しただけに終わり、原敬は首相在任中に初めて暗殺された人物となった。

史実

1856年 盛岡の上級藩士原直治の次男原敬が岩手郡本宮村にて出生

1870年 原敬が盛岡藩の藩校作人館・英学塾共慣義塾に学ぶ

1872年 原敬がフランス人伝道師マリンの神学校の学僕となる

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1873年 徴兵令布告、原敬が徴兵逃れのため別家戸主となり平民に降下

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1873年 江藤新平司法卿の追及により尾去沢銅山汚職が事件化、井上馨が大蔵大輔を引責辞任し実業界へ転じる

1876年 原敬が司法省法学校に入学するが3年で退学となる

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1878年 西南戦争に呼応する立志社の策動が発覚、陸奥宗光は5年の禁固刑を受け山形監獄に収容される

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1879年 原敬が中井弘の斡旋で郵便報知新聞社に入社

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1879年 伊藤博文の要請により井上馨が外務卿就任

1881年 大隈重信一派が追放され薩長藩閥政府が現出(明治十四年の政変)、首班の伊藤博文は国会開設の詔で民権派と妥協

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交遊録

中井弘 義父にして出世の糸口
原貞子 妻にして出世の糸口
井上武子 義母にして出世の糸口
井上馨 最初のボス
鮎川義介 井上親族の政商
陸奥宗光 二番目のボス
伊藤博文 最後のボス
西園寺公望 お公家さん
伊東巳代治 政友会の仲間
金子堅太郎 政友会の仲間
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