著名自分史「松下幸之助」

オリジナル

松下 幸之助

まつした こうのすけ

松下 幸之助

1894年~1989年

90

一代で松下電器産業(パナソニック)を築いた高度経済成長の象徴にして「日本的経営」の完成者、松下政経塾やPHP研究所で政財界人を薫陶した「経営の神様」

寸評

基礎点 90点 松下幸之助は、「日本的経営」を確立し松下電器産業(パナソニック)を築いた高度経済成長の象徴、「経営の神様」と崇められ松下政経塾・PHP研究所の創設者としても名高い。和歌山の貧家に生れた松下幸之助は9歳で大阪へ丁稚奉公に出され、市電に感激し大阪電燈で電気技術を習得、改良ソケットを考案し1917年22歳で創業した。妻と義弟の井植歳男に友人2人の船出だったが、松下幸之助は取外し可能なカンテラ式自転車ランプを開発し業績伸張、「ナショナル」商標でアイロン・乾電池・ラジオへ手を拡げ、門真市に現本社工場を開設し1935年「松下電器産業株式会社」へ改組した。国家総動員法制下では船舶・飛行機など畑違いの軍需品生産と海外移転を強要されたが業容は拡大した。第二次大戦後、松下電器産業は満州・朝鮮・台湾・ジャワ・マニラの工場等を接収されたうえ財閥解体指定を受け、松下幸之助は公職追放に遭難したが、GHQに対し4年間で150回に及ぶ猛抗議を行い「PHP研究所」を設立し平和主義をアピール、社内労組の赦免運動も功を奏し1年で社長復帰を果した。共に公職追放された義弟の井植歳男は1947年暖簾分けで「三洋電機」を創業している。続くドッジ・ライン恐慌で松下電器産業も苦境に陥ったが、松下幸之助は代理店開拓と株式上場で経営基盤強化に努め、朝鮮戦争のラジオ特需で盛返し高度経済成長下「三種の神器」で躍進、「Pana Sonic」商標で欧米市場を開拓した。松下幸之助は「ひかりの道」の啓示で「水道水の如く安価な生活物資を十分に提供し、貧を無くす真の経営=真経営」を標榜し、小林一三に倣い広告宣伝にも注力、「マネシタ電器」と批判されつつ「ナショナルショップ制度」・事業部制・終身雇用など優れた経営手法で日本一の総合家電メーカーへ発展させた。1961年松下幸之助は娘婿の松下正治に社長を譲ったが、3年後販売不振に陥ると「熱海会談」で一線復帰し「販売の松下」を再建、1973年年商一兆円突破を花道に相談役に退いた。10度も長者番付首位に輝いた松下幸之助は名誉職と啓発活動で快い晩年を過ごし、日米貿易戦争とバブル崩壊を見ることなく94歳で大往生を遂げた。

史実

1894年 和歌山県海草郡和佐村千旦ノ木の農民松下政楠の三男に松下幸之助が出生(2人の兄は早世)

1894年 日清戦争勃発

詳細を見る

1895年 下関条約で日清戦争終結、朝鮮(李朝)が初めて中国から独立しソウルに独立門建立

詳細を見る

1896年 豊田佐吉が動力織機「豊田式木鉄混製力織機」を発明し繊維業界を席巻(2年後特許取得)

詳細を見る

1899年 松下政楠(松下幸之助の父)が米相場で没落し下駄屋を開業するも失敗

1901年 官営八幡製鉄所操業

詳細を見る

1904年 日露戦争開戦

詳細を見る

1904年 松下幸之助が9歳で小学校を中退し大阪で丁稚奉公、翌年五代自転車商会に入店

1905年 ポーツマス条約調印

詳細を見る

1905年 三井の越後屋が三越呉服店へ改称しデパートメントストア宣言

詳細を見る
もっと見る

交遊録

井植歳男 義弟・三洋電機創業者
井植むめの
井植祐郎 義弟
井植薫 義弟
松下正治 婿養子・松下電器2代目
山下俊彦 松下電器3代目
谷井昭雄 松下電器4代目
石田梅岩 哲学の師匠
山本武信 商売敵の大阪商人
小林一三 尊敬する阪急創業者
もっと見る