著名自分史「小沢一郎」

オリジナル

小沢 一郎

おざわ いちろう

小沢 一郎

1942年~-年

60

「田中角栄の秘蔵子」ながら金丸信に従い経世会の内紛で自民党離脱、「二大政党制」を掲げて2度の政権交代を実現し民主党政権で従米脱却を図るが「国策捜査」で失脚

寸評

基礎点 20点 小沢一郎は、三木武吉に仕え戦後大臣を歴任した小沢佐重喜の長男で、父の急死で地盤を継ぎ1969年27歳で衆議院議員初当選、「田中角栄の秘蔵子」といわれたが「経世会」の造反劇では師匠の金丸信に従った。小沢一郎は若輩ながら「金竹小」体制で「経世会支配」を牽引し1989年47歳で自民党幹事長に就任、総裁選出馬は見送ったが候補者の「小沢詣で」で豪腕を見付け1991年宮澤喜一内閣を成立させた。海部俊樹・宮澤喜一内閣で、小沢一郎は首相の頭越しに「ミスター外圧」アマコスト駐日大使と提携し、湾岸戦争が起ると「出し渋ったら日米関係は大変なことになる。いくらでも引受けてこい。責任は私が持つ」と橋本龍太郎蔵相を促しアメリカの要求どおり130億ドルもの協力金を献上、自衛隊派遣の名分を得るため「国連平和協力法案」を提出した。さらに小沢一郎は「日米構造協議」で公共投資10年間430兆円を容認し、ベストセラーとなった自著「日本改造計画」で旗振り役を演じた。アメリカは剛腕の従米派に期待を寄せたが、経世会では金丸信を後ろ盾に後継会長を狙う小沢一郎と竹下登・小渕恵三・橋本龍太郎ら主流派の内紛が発生、「東京佐川急便事件」で金丸が失脚すると小渕が経世会会長に就任した。翌1993年、小沢一郎は自民党を割り「新党ブーム」を追風に「新生党」を結成(党首は羽田孜)、内閣不信任決議で宮澤喜一内閣を倒し、自民党との連立へ傾く日本新党の細川護煕を首相に担ぎ非自民連立政権を成立させた。が、お定りの主導権争いで寄集めは崩れ、細川護煕は政権を投出し代わった羽田孜内閣は僅か64日で瓦解、「55年体制」の「中断」は1年も続かず「自社さ連立」の村山富市内閣が発足した。野党に転落した新生党・日本新党は「新進党」に合同し政権奪還を目指したが、党首小沢一郎の独断専行に離反者が相次ぎ羽田孜や細川護煕も離反、1997年新進党は雲散霧消し小沢の「自由党」など6党に分裂した。政権復帰を目指す小沢一郎は1999年自民党と復縁し小渕恵三内閣で「自自公連立」を組むが、根強い「小沢アレルギー」に阻まれ連立解消、2003年鳩山由紀夫・菅直人らの民主党に合流した。
40点 2003年選挙に滅法強い小沢一郎を得た民主党は同年の「マニフェスト選挙」で躍進、2005年の「郵政選挙」では「小泉旋風」に屈したが、2007年参院選で過半数議席を獲得し「衆参ねじれ国会」が現出、2009年の総選挙で憲政史上最高の議席占有率64.2%を獲得し政権交代を達成した。数だけの政権交代に懲りた小沢一郎は自民党との政策対比戦略を採用、小泉純一郎政権の地方切捨てに地方経済重視で対抗し、従米外交を捨て「国連中心主義」「東アジア共同体構想」を提唱、2009年「米国もこの時代に前線に部隊を置いておく意味はあまりない。軍事戦略的に米国の極東におけるプレゼンスは第七艦隊で十分だ。あとは日本が自らの安全保障と極東での役割をしっかり担っていくことで話がつくと思う。米国に唯々諾々と従うのではなく、私たちもきちんとした世界戦略を持ち、少なくとも日本に関係する事項についてはもっと役割を分担すべきだ。そうすれば米国の役割は減る」と発言した(第七艦隊発言)。が、その10日後に「西松建設献金問題」が発生、公設秘書逮捕で小沢一郎は民主党代表を引責辞任し直後に鳩山由紀夫内閣が発足した。祖父鳩山一郎の遺志を継ぐ鳩山由紀夫首相は小沢一郎幹事長と共に従米脱却に邁進、内政干渉ツール「年次改革要望書」を廃止して在日米軍基地削減と「有事駐留」転換を図り、自主憲法制定を唱え中国に急接近したが、「普天間基地移設問題」で袋叩きに遭い鳩山首相は「最低でも県外」発言の撤回と共に辞任に追込まれた。組閣早々「尖閣問題」に躓いた菅直人内閣は従米回帰へ傾き東日本大震災・福島原発事故で政権担当能力の無さを露呈、小沢一郎は民主党代表選で対抗したが突然の「陸山会事件」で党員資格を剥奪された。「菅おろし」は成功したが、野田芳彦・前原誠司ら松下政経塾・従米派の天下となり野田政権へ移行、2012年小沢一郎グループ50人は民主党を脱党した。直後の総選挙で民主党は大敗し政権ごっこは終焉、小沢一郎は無罪が確定し「国策捜査」が明白となったが衰退著しく2013年の総選挙で「生活の党」は小沢以外全員落選の惨敗を喫し政党要件さえ失って脱原発の山本太郎一派と合流した。

史実

1942年 東京府会議員(のち衆議院議員)小沢佐重喜の嫡子小沢一郎が東京御徒町にて出生、中学進学で上京するまで地元の岩手県水沢で育つ

1945年 日本がポツダム宣言に基づく降伏を通告

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1946年 新選挙法による初の衆議院総選挙で鳩山一郎の自由党が勝利(初の女性議員39名が誕生)

1946年 小沢佐重喜(小沢一郎の父)が三木武夫の薦めで岩手2区から出馬し衆議院議員初当選(~1968)

1946年 GHQが自主路線の鳩山一郎を公職追放し第一党自由党の後継総裁に吉田茂が就任

1947年 田中角栄が新潟3区から民主党公認で出馬し衆議院議員初当選(~1990)

1947年 GHQ作成日本国憲法施行

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1948年 民主党を離脱した幣原喜重郎グループ(田中角栄も)が自由党に合流し民主自由党成立(吉田茂総裁)

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1948年 GHQ参謀第2部が民生局を打倒し第二次吉田茂内閣(民主自由党・外務官僚・従米路線の祖)発足、吉田茂が外相兼任、父小沢佐重喜が運輸相就任

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1949年 第三次吉田茂内閣(民主自由党・外務官僚・従米路線の祖)発足、吉田茂が外相就任(岡崎勝男に途中交代)、父小沢佐重喜が郵政相就任

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交遊録

小沢佐重喜
渡辺喜三郎 父の義兄で鹿島の大番頭
鹿島守之助 鹿島総帥
鹿島卯女 鹿島の女傑
三木武吉 父の師匠
椎名悦三郎 父のライバル・後藤新平の甥で岸信介の側近
田中角栄 オヤジ
金丸信 師匠
竹下登 経世会初代・金丸の盟友だが最後は対立
羽田孜 金丸系盟友→対立
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