著名自分史「寺内正毅」

オリジナル

寺内 正毅

てらうち まさたけ

寺内 正毅

1852年~1919年

30

陸軍長州閥に属し山縣有朋の子分というだけで首相に上り詰め、シベリア出兵と米騒動を巻き起し、藩閥専横と超然主義の限界を身を持って示したビリケン宰相

寸評

基礎点 50点 長州出身の寺内正毅は山縣有朋の子分として陸軍で累進し初代教育総監、朝鮮総督、陸軍大臣の要職を歴任、首相まで上り詰めた。
-20点 おそらく山縣有朋の言うがままで、寺内正毅自身は何の政見も持っていなかったと思われる。寺内正毅内閣の業績を敢えてあげると、ロシア革命に乗じて勢力拡大を企図したシベリア出兵は大失敗、民権運動の弾圧が米騒動に拍車を掛け、朝鮮総督としての強硬な軍政が三・一独立運動などの抗日運動に火をつけるなど、プラスの要素は一つもない。寺内正毅は日露戦争時の陸軍大臣だが、同じ陸軍長州閥の山縣有朋・桂太郎・児玉源太郎と比べ全く陰が薄い。

史実

1852年 長州藩の下級藩士宇多田正輔の三男寺内正毅が吉敷郡平川村にて出生

1860年 宇多田正毅(寺内正毅)が寺内勘右衛門の養子となる

詳細を見る

1867年 王政復古の大号令

詳細を見る

1868年 戊辰戦争、16歳の寺内正毅は函館戦争まで転戦

1868年 板垣退助の官軍に会津若松城を攻囲され会津藩が降伏、松平容保は江戸へ移され蟄居

詳細を見る

1868年 盛岡藩に続き庄内藩が降伏、東北戦争終結

1869年 土方歳三が弁天台場の戦いで戦死(享年35)、榎本武揚の五稜郭が降伏し函館戦争・戊辰戦争終結

詳細を見る

1869年 版籍奉還

詳細を見る

1869年 兵制論争、大久保利通・薩摩士族が大村益次郎の政府直轄軍構想を廃し薩長土供出の御親兵に決定、大村益次郎は木戸孝允に慰留され兵部大輔に就任(大村は弟子の山田顕義を兵部大丞に就ける)

詳細を見る

1869年 大村益次郎が京都河東操練所開設、児玉源太郎・寺内正毅らが入学

もっと見る

交遊録

大村益次郎 大先生
山田顕義 最初のボス
山縣有朋 親分
児玉源太郎 ライバル
桂太郎 先輩
木戸孝允 雲の上の人
伊藤博文 親分の政敵
井上馨 伊藤の盟友
鮎川義介 井上親族の政商