著名自分史「山本権兵衛」

オリジナル

山本 権兵衛

やまもと ごんべえ

山本 権兵衛

1852年~1933年

90

西郷隆盛・従道兄弟の庇護下で軍政の才能を発揮、日清・日露戦争を勝利に導いた「日本海軍の父」

寸評

基礎点 90点 薩摩藩出身にして薩英戦争以来の実戦経験者という恵まれた立場でスタートした山本権兵衛は、西郷隆盛・従道兄弟の庇護下で海軍の中枢を担う人材に成長、陸軍の一部だった海軍の分離独立を断行して組織・人事を確立し、日清・日露戦争では開戦準備から作戦計画を主導し勝利の立役者となった。正に「海軍の父」の称号に相応しい業績で、首相となった加藤友三郎・斉藤実・岡田啓介・米内光政をはじめ山本五十六・井上成美・財部彪など国際協調・良識派とされる海軍人は悉く山本権兵衛に抜擢され或いは薫陶を受けた者達である。また、日露戦争の英雄となった東郷平八郎は、軍事的才能はともかく命令を遵守する性格を山本権兵衛に買われ連合艦隊司令長官に抜擢された。山本権兵衛は軍事だけでなく国際感覚と政治センスに優れた政治家でもあり、海軍閥首領ながら伊藤博文・西園寺公望の政友会の支持を得て2度組閣し長期政権を期待されたが、虎ノ門事件・シーメンス事件の不運に見舞われ2度とも短命政権に終わった。
10点 山本権兵衛は首相引退後は政治や軍事に口出しせず、見事な引際で後世に範を示した。統帥権干犯問題で艦隊派に担がれ軍拡と対米強硬路線の旗印となった東郷平八郎とは対照的であり、山本権兵衛の潔さが一層鮮明に映る。
-10点 海軍人山本権兵衛の生涯は非の打ち所がない見事なものだが、あえて言えば、後に海軍暴走の元凶となる伏見宮博恭王の厚遇を指示したことと、その伏見宮と東郷平八郎を担ぐ艦隊派による良識派海軍人の粛清を黙認したことは失策であった。山本権兵衛に直接的な責任はないが、東郷・伏見宮の両元帥を抑えられる唯一の海軍人として果たすべき役割があったかも知れない。

史実

1852年 薩摩藩の下級藩士山本五百助盛珉の六男山本権兵衛が鹿児島城下加治屋町にて出生

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1863年 薩英戦争、11歳の山本権兵衛は雑役で従軍

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1867年 島津久光が薩摩藩兵700を率いて上洛、西郷隆盛が先発し四候会議のお膳立て、小銃隊士として従軍

1867年 薩摩藩主島津忠義が藩兵3千を率いて上洛(軍司令官は西郷隆盛)

1868年 鳥羽伏見の戦いに官軍が圧勝、16歳の山本権兵衛は川村純義隊に属し八幡方面の実戦に参加

1868年 黒田清隆・山縣有朋が北陸方面軍参謀として越後長岡へ出征、山本権兵衛も従軍

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1868年 奥羽越列藩同盟が成立

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1868年 河井継之助の長岡藩が降伏、北陸方面軍の山縣有朋隊は会津・黒田清隆隊は庄内へ転戦(山本権兵衛は黒田隊に所属)

1868年 板垣退助の官軍に会津若松城を攻囲され会津藩が降伏、松平容保は江戸へ移され蟄居

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1868年 盛岡藩に続き庄内藩が降伏、東北戦争終結

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交遊録

島津久光 主君
島津忠義 若殿
西郷隆盛 第一の恩人
西郷従道 良き上司
大山巌 薩摩藩の先輩
大久保利通 薩摩閥のボス
川村純義 最初の上司
樺山資紀 上司
仁礼景範 上司
伊東祐亨 偉大な先輩
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