著名自分史「池田勇人」

オリジナル

池田 勇人

いけだ はやと

池田 勇人

1899年~1965年

80

大蔵省傍流ゆえに公職追放を免れ吉田茂の「保守本流」を継いで首相に栄達、「寛容と忍耐」で安保問題を封印し従米外交を定着させたが「所得倍増計画」で高度経済成長を彩り貿易立国への道を拓いた「三等重役」の旗手

寸評

基礎点 70点 池田勇人は戦後公職追放で浮上した「三等重役」の出世頭、外務省傍流からGHQ傀儡政権に君臨した親分の吉田茂と似た経歴である。池田勇人は京大法学部から大蔵省へ進み税務畑を歩んだが、4年目に難病に罹り2年の休職期間を経て退官、5年間も死線を彷徨い看病疲れの新妻を亡くした(のち再婚)。奇跡的に快復した池田勇人は大蔵省に復職したが新採扱いで出世レースに乗遅れ、後年「総理大臣になったときよりも、国税課長になったときの方がうれしかった」と追想している。とはいえ大蔵省枢要の主税局長で終戦を迎えた池田勇人は、公職追放の嵐のなか消去法的に地位を高め石橋湛山蔵相に気に入られ大蔵次官に栄達、吉田茂の愛弟子となり1949年の総選挙で衆議院議員に転身した。1年生議員ながら第三次吉田茂内閣の蔵相に大抜擢された池田勇人は、超緊縮財政「ドッジ・ライン」の指揮を執り、吉田首相の密命で渡米し「単独講和」を申入れるなど外交にも活躍した。通産相に転じた池田勇人は、自ら招いたドッジ・ライン恐慌のなか「貧乏人は麦を食え」「中小企業の倒産・自殺やむなし」の失言で辞任に追込まれたが、自由党要職に留まり吉田茂の「保守本流」を引継いで「宏池会」を結成、石橋湛山内閣で蔵相に復帰し、「安保闘争」に乗じて岸信介内閣を倒し1960年後継首相に就任した。吉田茂の「経済優先・外交従米」を踏襲した池田勇人首相は「寛容と忍耐」で安保問題を棚上げし「所得倍増計画」に邁進、1954年に始まった「高度経済成長」に乗り日本はアメリカに次ぐ経済大国へ躍進した。下村治経済顧問ら腹心の産業政策は効果を現し、池田勇人首相はド・ゴール仏大統領から「トランジスタラジオのセールスマン」と揶揄されつつ「冷戦の論理」でGATT11条国・IMF8条国への移行を押通し、1964年OECD加盟で日本経済の国際社会復帰を達成した。「経済自主」を掲げる池田勇人首相は、アジア経済統合を構想し日本の存在感向上に努め、アメリカの反対を抑えて日中貿易(LT貿易)の枠組みを構築した。喉頭ガンの池田勇人は宏池会を腹心の大平正芳・宮澤喜一に託し1964年東京オリンピックを花道に引退、翌年65歳で永眠した。
10点 池田勇人は吉田茂の後継者として今日も続く外交従米・経済優先のレールを敷いた重要人物だが、アメリカの言いなりになるだけでなく強かな外交手腕も発揮した。「経済自主」を掲げた池田勇人は岸信介内閣のアジア重視外交を踏襲し、インドネシアなどへの経済「再進出」を加速させた。さらに、実現は叶わなかったが、日本同様にアジアの政治闘争を経済建設にシフトさせEEC(欧州経済共同体)のようなアジア経済統合を構想していたとされる。池田勇人内閣によって高度経済成長は磐石となり、また日本の輸出競争力を警戒する西欧諸国を懐柔して貿易自由化への道筋を整えた業績を考えると、外交・安全保障面で従米路線を固めた罪過よりも経済大国への道を拓いた功労の方が上回るだろう。池田勇人は青年期5年間の闘病生活ゆえかザックバランだが打たれ強い性格で、「中小企業の倒産・自殺やむなし」「貧乏人は麦を食え」など失言癖で再三窮地に陥りながらも「私はウソは申しません」と開き直り、部下に慕われ下村治・宮澤喜一・大平正芳など多くの人材を世に送り出した人間味溢れるユニークな宰相であった。

史実

1899年 広島県豊田郡吉名村(現竹原市)の素封家で酒造業を営む池田吾一郎の次男に池田勇人が出生

1912年 明治天皇が崩御し大正天皇が即位

1914年 第一次世界大戦勃発、世界的物資不足のなか日本は特需景気を満喫

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1918年 第一次世界大戦終結

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1919年 パリ講和会議・ベルサイユ条約で第一次世界大戦の講和成立(日本全権は西園寺公望・牧野伸顕)、吉田茂も随行

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1920年 国際連盟が発足し日本は英仏伊と共に常任理事国に列す

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1923年 関東大震災

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1925年 池田勇人が京都帝国大学法学部を卒業し大蔵省入省

1926年 大正天皇が崩御し昭和天皇が即位

1927年 池田勇人が函館税務署長就任

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交遊録

吉田茂 親分
マッカーサー 君主
ウィロビー 副君主
ケーディス ウィロビーの政敵
ホイットニー ウィロビーの政敵
トルーマン 王様だが吉田の政敵
アイゼンハワー 新王様
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