著名自分史「西園寺公望」

オリジナル

西園寺 公望

さいおんじ きんもち

西園寺 公望

1849年~1940年

40

岩倉具視の引きで公家政治家となり、伊藤博文の後継として軍部の暴走抑止に努めたが、最後はテロに屈した昭和のキングメーカー

寸評

基礎点 70点 西園寺公望は伊藤博文の後継として政友会総裁となり、2度組閣した。伊藤の死後は山縣有朋専制下で逼塞するが、山縣の死によって復活、重臣会議のリーダーとして首相指名の大役を担い、軍部の暴走抑止に努めた。
-20点 軍官民あげた軍国主義化の流れに抗し難い状況とはいえ、西園寺公望は統帥権を握る天皇側近のリーダーとして、また政党政治家の領袖としても、もう少し腰を据えて頑張るべきであった。特に張作霖爆殺事件では、西園寺公望は軍部の脅迫に腰砕けとなって断固たる処置を放棄し、後に続く満州事変、五・一五事件、二・二六事件、日中戦争拡大を誘発する悪しき前例をつくってしまった。政党政治は政争に明け暮れ堕落する宿命だったとはいえ、政友会総裁は初代の伊藤博文・3代目の原敬・4代目の高橋是清・6代目の犬養毅と、西園寺公望および5代目で陸軍長州閥の田中義一を除いて皆暗殺されており、公家故に比較的安全な西園寺に命懸けで戦う覚悟があれば歴史を変えられたかも知れない。
-10点 近衛文麿を公家政治家の後継に据えた西園寺公望の罪は重い。近衛文麿内閣の大暴走は西園寺公望の死後だが、軍部顔負けの強硬派で日本を亡国へ導き史上最悪の首相となった。西園寺公望に、岩倉具視から受継いだ公家政治家の縄張り意識があったとすれば更に罪深い。

史実

1849年 清華家当主の徳大寺公純の次男徳大寺公望(西園寺公望)が京都にて出生

1852年 徳大寺美丸(西園寺公望)が西園寺師季の養子となり翌年家督を継ぐ

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1867年 睦仁親王(明治天皇)即位

1867年 孝明天皇崩御に伴う大赦で長州系の三条実美ら五卿のほか九条尚忠・岩倉具視ら公卿が赦免される

1867年 徳川慶喜が二条城で大政奉還を発表

1867年 大久保利通・西郷隆盛・岩倉具視の謀略により朝廷が薩長などに討幕の密勅を下す

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1867年 王政復古の大号令

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1867年 三職の設置、岩倉具視が西園寺公望を参与に抜擢

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1868年 鳥羽伏見の戦いに官軍が圧勝~戊辰戦争始まる

1868年 明治天皇が徳川慶喜追討の親征を宣言、薩摩(西郷隆盛)・長州・佐土原・大村の東海道軍と薩長・土佐(板垣退助)など諸藩混成の東山道軍が江戸へ進発、徳川慶喜は小栗忠順ら主戦派を退け恭順派の勝海舟に全権を託す

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交遊録

岩倉具視 微妙な恩人
三条実美 先輩
大原重徳 小うるさい先輩
仁和寺宮 先輩
近衛文麿 最悪の後継者
木戸孝允 長州藩のリーダー
大村益次郎 長州藩の副リーダー
山縣有朋 伊藤の政敵
前原一誠 長州藩の戦友
桂太郎 山縣の子分にして協力関係
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