著名自分史「大隈重信」

オリジナル

大隈 重信

おおくま しげのぶ

大隈 重信

1838年~1922年

20

「対外硬」と口八丁で参議に出世、自滅するも政党政治家として首相となり、脱亜論に乗せられて対華21カ条要求をしでかした「反日」の元凶

寸評

基礎点 60点 大隈重信は外国語ができて押しも強い実務官僚として頭角を現し、「維新の三傑」亡き後、伊藤博文・山縣有朋が実権を掌握するまでの過渡期において、参議筆頭として重要な役割を果した。明治十四年の政変で失脚した後は、政党政治家の大物として自由民権運動に参加し、内閣総理大臣を2度勤めた。
-30点 軍人でもないのに大隈重信がしでかした「対華21カ条要求」は最悪だった。国際政治上は無意味なパフォーマンスに過ぎず、日中戦争泥沼化と今日まで続く「反日」の元凶となった。戦争を職業とする軍人が「対外硬」に傾くのは仕方のない面があり、だからこそ軍事優位の国家で文官は国際協調を本旨とすべきである。大隈重信首相・加藤高明外相による「対華21カ条要求」は、後の近衛文麿や松岡洋右ほどではないが、末代まで禍根を残す大失策であった。老人が「成功体験」に固執してやらかす典型例であろう。
-20点 大隈重信はパフォーマンスが派手で民権派の大物として国民の人気も高いが、これといった政治的業績はあげていない。財政では野放図な紙幣増刷と借金でインフレを巻き起し、外交では「対外硬」で国際情勢をわきまえない妄言により混乱を生起した。明治政府で大隈重信が出世したのは、戊辰戦争で活躍した佐賀藩の出であること、伊藤博文や井上馨に巧みに取り入ったこと、薩長平等の建前で「バルカン政治家」が浮かび上がる素地があったことなどによるもので、決して本人の政治的業績や識見によるものではない。
10点 大隈重信は単なる政治屋で福澤諭吉のような教育者とはいえないが、早稲田大学創始者としての功績は評価すべきだろう。

史実

1838年 佐賀藩の上級藩士大隈信保の嫡子大隈重信が佐賀城下にて出生

1840年 佐賀藩主鍋島直正が藩校弘道館を移転拡充し蒙養舎を設立

1840年 アヘン戦争(~1842)

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1850年 佐賀藩の枝吉神陽・大隈重信・副島種臣・江藤新平・大木喬任・島義勇らが義祭同盟を結成

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1850年 佐賀藩が日本初の反射炉の実証炉を建設し洋式砲の鋳造を開始

1851年 島津斉彬が老中阿部正弘を後ろ盾に父の島津斉興を引退させ11代薩摩藩主に就任、富国強兵・殖産興業を掲げ集成館事業など藩政改革に着手

1851年 佐賀藩が洋式技術導入のため精煉方を開設

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1852年 オランダ商館長が長崎奉行にペリー来航を予告、佐賀藩主鍋島直正が軍備を増強

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1853年 「からくり儀右衛門」こと田中久重が佐賀藩精煉方に着任

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1853年 [ペリー来航]マシュー・ペリー艦隊が浦賀に来航、フィルモア米大統領の親書交付

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交遊録

鍋島直正 つれない主君
鍋島直大 直正嫡子・10代佐賀藩主
枝吉神陽 佐賀藩尊攘派の盟主
江藤新平 佐賀藩尊攘派の同志
副島種臣 佐賀藩尊攘派の同志
大木喬任 佐賀藩尊攘派の同志
島義勇 佐賀藩尊攘派の同志
佐野常民 適塾生
田中久重 優秀な技術者
フルベッキ 英語の先生
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