著名自分史「伊藤博文」

オリジナル

伊藤 博文

いとう ひろふみ

伊藤 博文

1841年~1909年

100

高杉晋作の功山寺挙兵を支えた長州維新の功労者、大久保利通没後の明治政界を主導し内閣制度発足・大日本帝国憲法制定・帝国議会開設・不平等条約改正・日清戦争勝利を成遂げ国際協調と民権運動との融和を進めた大政治家

寸評

基礎点 110点 伊藤博文は、大久保利通の後継者として明治政界を主導、太政官制を内閣制度に改めて自ら初代総理大臣に就き、大日本帝国憲法制定・帝国議会開設・不平等条約改正など国体の基本を創建した。また、国際協調・平和主義者であったが、国防上避けられない日清戦争を敢行して勝利を収め、自ら講和交渉に乗込んで下関条約を成立させ膨大な賠償金と台湾を獲得し国土防衛の要である朝鮮から清を排除した。亡国のリスクを伴う日露戦争に伊藤博文は猛反対しロシアとの妥協に努めたが(日露協商・満韓交換論)、朝鮮・満州を狙うロシアは妥協せず開戦が決定するや配下の金子堅太郎をアメリカに派遣して工作にあたらせ、物資欠乏で日本軍が継戦不能に陥るとセオドア・ルーズベルト米大統領を斡旋役に引張り出し早期講和へ導いた(ポーツマス条約)。幕末期の伊藤博文は高杉晋作の弟分として志士活動に奔走、力士隊30人を率い高杉の功山寺決起を支えた功績も見逃せない。親友の井上馨・政敵の山縣有朋をはじめ明治維新後の長州閥は汚職にまみれたが、金銭に潔癖な伊藤博文は明治天皇から最も信頼され政治力の裏付となった。伊藤博文は、擁護し続けた朝鮮の過激分子にピストルで射殺され、障害の無くなった陸軍長州閥は韓国併合を断行したが、国事に殉じ国士らしい死様であった。
-10点 伊藤博文自身の政策は欧米列強との協調なくして存立できない日本の宿命に沿うものであり、国際情勢は植民地競争の真只中で軍拡は必須、円滑な政治運営のため山縣有朋ら軍閥との妥協が必要だったことも確かだが、もう少し軍隊のシビリアン・コントロール(文民統治)を重視した仕組み作りをして欲しかった。後の軍部暴走の根本原因は大日本帝国憲法に「統帥権の独立」(天皇による軍事独裁)を認めたことであり、この阻止が最上であったが、無理だとしても統帥権のチェック機能を設けるとか、少なくとも軍部大臣現役武官制や教育勅語など極端に軍部を利する政策は断固として排除すべきであった。

史実

1841年 農民林十蔵の嫡子林利助(伊藤博文)が周防熊毛郡にて出生

1842年 異国船打払令を緩和し薪水給付令施行

1850年 井伊直亮が死去し弟の井伊直弼が15代彦根藩主に就任、藩政改革に着手し譜代筆頭として幕政に乗出す

1851年 吉田松陰が東北旅行へ出奔、手続き不備のため脱藩の罪を得る

1852年 江戸桜田藩邸に戻った吉田松陰が萩へ召還され脱藩罪により士籍・家禄剥奪のうえ杉百合之助の「育み」とされる

1852年 彦根藩主井伊直弼が長野主膳を知行150石で藩士に召抱え藩校弘道館の国学教授に任じる

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1853年 [ペリー来航]マシュー・ペリー艦隊が浦賀に来航、フィルモア米大統領の親書交付

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1853年 吉田松陰が藩主毛利敬親に上書し長州藩の国防論を提言

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1853年 攘夷を決意する吉田松陰が京阪で梁川星厳・梅田雲浜と会談し江戸で長州藩主毛利敬親に『海戦策』を上書

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1854年 ペリー艦隊が再来航し日米和親条約締結(蘭露英仏と続く安政五ヶ国条約)、吉田松陰がアメリカ船での海外密航を企てるが失敗し自主して伊豆下田の牢に投獄される

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交遊録

毛利敬親 主君にして良き理解者
毛利定広 敬親養嗣子の長州藩世子
吉田松陰 出世の大恩人
来原良蔵 出世の足掛り
木戸孝允 気難しいボス
高杉晋作 松下村塾の双璧・偉大なボス
久坂玄瑞 松下村塾の双璧・過激なボス
井上馨 大親友
吉田稔麿 松下村塾の四天王
入江九一 松下村塾の四天王
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