著名自分史「勝海舟」

オリジナル

勝 海舟

かつ かいしゅう

勝 海舟

1823年~1899年

60

西郷隆盛に長州宥和を促し徳川慶喜に絶対恭順を説いて江戸城無血開城を果した開明派幕臣にして坂本龍馬の師匠、明治政府の高官に列すも距離を置き徳川家と旧幕臣の救済に余生を捧ぐ

寸評

基礎点 80点 勝海舟は幕臣でありながら雄藩諸侯や尊攘派志士と広く交流し、開国の利と幕藩体制変革の必要性を説いて反幕府陣営に大きな影響を与えた。幕府首脳で軍艦奉行も務めた勝海舟の言葉は非常に重く、討幕を奨励するような言説に志士たちを大いに勇気づけたに違いない。特に西郷隆盛との人間関係は重要で、長州征討の不利を説いて宥和路線へ転じさせ、弟子の坂本龍馬が薩長同盟に奔走、薩摩藩が戊辰戦争を引起すと勝海舟は徳川慶喜を説いて絶対恭順を決意させ、幕府代表として西郷隆盛に会い江戸城無血開城で内戦拡大を食止めた。勝海舟は、幕府においては無役の旗本から5千石の軍艦奉行に大出世し、戊辰戦争が起ると恭順派筆頭として徳川慶喜から全権を託され、明治政府でも参議・海軍卿・伯爵となり旧幕臣中異例の出世を遂げ77歳の長寿を全うした。勝海舟は、門閥世襲の要人を無能呼ばわりして憚らず大言壮語癖もあって敵が多かったが、結果をみると天才的処世術であり政治手腕も評価に値する。
-20点 「勝てば官軍」とはいえ、勝海舟は幕府からみれば「獅子身中の虫」「二重スパイ」といわれても仕方ない役回りを演じた。政治心情はともかく幕府の禄を食む以上はそのために働くべきであり、人としての誠意や忠節に疑問が残る。明治政府の高官となった勝海舟は薩長政府に距離を置き、代わりに徳川家や旧幕臣の救済運動に余生を捧げた感があるが、贖罪意識の現れに思える。ただし、有能を自認し時局眼が鋭い勝海舟は、愚鈍な世襲門閥が牛耳る幕閣に我慢ならず、徳川幕府の体制温存より日本国のために機能不全の打破を優先したとの見方もできよう。

史実

1823年 旗本勝小吉の嫡子勝麟太郎義邦(勝海舟)が江戸にて出生

1825年 異国船打払令

1828年 シーボルト事件

1829年 徳川斉脩の急死に伴い弟の徳川斉昭が9代水戸藩主に就任、水戸学に基づき尊皇攘夷運動を牽引

1830年 鍋島斉直の隠居に伴い鍋島直正が10代佐賀藩主に就任、佐賀藩の藩政改革と近代化が始まる

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1831年 勝海舟が犬に睾丸を噛まれ重体に陥るが父小吉の看病と願掛けで回復

1837年 水戸藩主徳川斉昭と水戸学派が実権を掌握し藩校弘道館を開設し藩政改革を始動

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1838年 勝小吉の隠居に伴い嫡子の勝海舟が家督を相続し小普請組に出仕(40俵扶持)、剣術修行に励み直心影流剣術の島田虎之助より免許皆伝を授かる

1840年 アヘン戦争(~1842)

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1841年 天保の改革(~1845)~老中水野忠邦による重農主義復古政策

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交遊録

勝小吉 極道の父
勝小鹿 急逝した一人息子
男谷精一郎 従兄で剣術の師匠
島田虎之助 男谷高弟で剣術の師匠
佐久間象山 洋学の師で妹婿
永井青崖 蘭学の先生
徳川家定 不肖の13代将軍
徳川家茂 大好きな14代将軍
井伊直弼 最後の大老
長野主膳 井伊謀臣
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