著名自分史「松平容保」

オリジナル

松平 容保

まつだいら かたもり

松平 容保

1836年~1893年

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徳川慶喜から京都守護職を押付けられ討幕派の目の敵にされた挙句に見捨てられ孤立、自己保身のため大義なき戦いを強行し会津人と東国諸藩を巻き添えにした「賊軍の将」

寸評

基礎点 60点 松平容保は、京都守護職として徳川慶喜の「一会桑政権」を支え新撰組・見廻組を駆使して尊攘派志士の取締りに活躍した幕府末期の要人である。
-60点 会津戦争を起した松平容保は殿様として安穏な余生を送り、嫡子の松平容大は華族に列したが、不毛の下北半島に押込められた旧会津藩士は塗炭の苦しみに喘ぎ、巻添えを喰った東北人は永く「朝敵」と差別された。松平容保一人を生かすための犠牲は甚大で、幕末維新史で敵味方の双方からこれほど恨みを買った人物はいないだろう。明治維新後、松平容保や新撰組は朝敵とされ世間も冷淡視したが、薩長藩閥政治の弊害が広がるなか1928年に刊行された子母澤寛の『新撰組始末記』より判官贔屓と英雄視が始まり、現在では「幕府への忠義を貫いて薩長の横暴に対抗し会津戦争に敗れた悲劇の武将」というイメージが定着している。松平容保の京都守護職就任は、結果として徳川慶喜の雄藩離れと専横を促したが、幕府の家来としては忠義の名に値し八月十八日政変や禁門の変・尊攘派志士取締りにおける貢献は重要であった。が、大政奉還で幕府が消滅し主君の徳川慶喜が絶対恭順へ転じた後の松平容保の行動に大義名分は成り立たず、徳川氏に殉じるなら潔く絶対恭順に従うか慶喜なり家達なりの警護にあたるべきだった。孝明天皇から感謝された松平容保は勤皇の志を篤くしたが、朝廷への忠義を尽くすなら明治天皇と政府を対象とすべきで、朝命に反して会津戦争を引起し「奥羽越列藩同盟」で東北諸藩まで巻込んだ行動に大義は無い。政治力が乏しく病弱で優柔不断な松平容保は、徳川慶喜・松平春嶽に損役の京都守護職を強要されて断り切れず、維新後は激昂する会津藩士の抗戦論に引きずられたに過ぎないのだろう。薩長に赦免を拒否されると松平容保は決然と恭順を翻し、降伏を勧める国家老の西郷頼母らを排除し珍しく決断力を発揮したが、自己保身と朝敵の汚名雪辱が目的であり「我が身かわいさ」と非難されても仕方がない。

史実

1836年 美濃高須藩主松平義建の六男松平容保が江戸四谷藩邸にて出生

1837年 水戸藩主徳川斉昭と水戸学派が実権を掌握し藩校弘道館を開設し藩政改革を始動

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1838年 松平斉善の急逝に伴い松平春嶽が末期養子となり16代福井藩主に就任、中根雪江ら改革派が藩政改革を始動

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1840年 アヘン戦争(~1842)

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1841年 天保の改革(~1845)~老中水野忠邦による重農主義復古政策

1842年 異国船打払令を緩和し薪水給付令施行

1844年 水戸藩守旧派の工作により幕府が徳川斉昭を隠居・謹慎処分、嫡子の徳川慶篤が10代藩主となる

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1845年 水野忠邦が罷免され、開明派の阿部正弘が老中首座となる

1846年 松平容保が8代会津藩主松平容敬の養子となる

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1850年 井伊直亮が死去し弟の井伊直弼が15代彦根藩主に就任、藩政改革に着手し譜代筆頭として幕政に乗出す

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交遊録

松平義建 父・美濃高須藩主
徳川慶勝 兄・尾張藩主
徳川茂徳 兄・一橋家当主
松平定敬 巻込んだ弟・伊勢桑名藩主で京都所司代
松平容敬 養父・8代会津藩主
松平容大 嫡子・初代陸奥斗南藩主
西郷頼母 良識派の国家老
田中玄清 自刃した家老
神保内蔵助 自刃した家老
萱野長修 切腹した家老
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