著名自分史「松平春嶽」

オリジナル

松平 春嶽

まつだいら しゅんがく

松平 春嶽

1828年~1890年

50

島津久光の文久の改革で幕政を握るも徳川慶喜の暴走を許し公武合体に挫折、徳川家擁護で「薩長土肥」入りを逃したが横井小楠を招き福井藩で民主主義を育んだ「四賢候」

寸評

基礎点 70点 松平春嶽は、親藩大名を代表する立場で公武合体運動を推進し徳川慶喜を政権に就けたナンバー2、熊本藩士の横井小楠を招き開国通商や民主主義の進歩的政策を展開し福井藩は明治開明思想の源流となった。
-20点 松平春嶽は若い徳川慶喜を旗印に担ぎ自ら政権運営にあたる腹積もりだったが、慶喜は政権掌握の恩人である雄藩連合を抑えつけて専横を強め薩摩藩を討幕へ奔らせた。徳川慶喜の資質が最大の誤算たが、補佐役の松平春嶽が辛抱強い諫止を怠り衝突すると放り出したため参預会議は機能せず公武合体は挫折、春嶽は小御所会議で慶喜を擁護し辞官納地に反対したが時既に遅しだった。薩長が戊辰戦争を引起すと松平春嶽は反対の立場をとったが、積極的な佐幕派でもなく、どっちつかずで明治維新を迎えた福井藩は「薩長土肥」入りを逃した。徳川氏擁護を唱えつつ板垣退助の戊辰戦争参戦を黙認した山内容堂の土佐藩、官軍の優勢を見極めてから参戦し最新兵器で躍り出た鍋島直正の肥前佐賀藩、維新の功労は公武合体運動の中枢を担った松平春嶽の福井藩に遠く及ばないが土壇場の立ち回りで明治政府に食込んだ。親藩故もあろうが彦根藩や尾張藩など佐幕藩は悉く積極的に官軍へ寝返っており、福井藩の敗因は気に入らないと放り出す松平春嶽の性格が大であったように思われる。

史実

1828年 田安家当主徳川斉匡の八男松平慶永(松平春嶽)が江戸にて出生

1829年 徳川斉脩の急死に伴い弟の徳川斉昭が9代水戸藩主に就任、水戸学に基づき尊皇攘夷運動を牽引

1830年 鍋島斉直の隠居に伴い鍋島直正が10代佐賀藩主に就任、佐賀藩の藩政改革と近代化が始まる

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1837年 水戸藩主徳川斉昭と水戸学派が実権を掌握し藩校弘道館を開設し藩政改革を始動

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1838年 松平斉善の急逝に伴い松平春嶽が末期養子となり16代福井藩主に就任、中根雪江ら改革派が藩政改革を始動

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1840年 アヘン戦争(~1842)

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1841年 天保の改革(~1845)~老中水野忠邦による重農主義復古政策

1842年 異国船打払令を緩和し薪水給付令施行

1844年 水戸藩守旧派の工作により幕府が徳川斉昭を隠居・謹慎処分、嫡子の徳川慶篤が10代藩主となる

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1845年 水野忠邦が罷免され、開明派の阿部正弘が老中首座となる

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交遊録

徳川斉匡 父・田安家当主
松平斉善 養父・15代福井藩主
松平茂昭 養嗣子・17代福井藩主
松平慶民 実子
徳川義親 実子
中根雪江 改革派の側近
横井小楠 招聘した天才思想家
橋本左内 痛恨の刑死
由利公正 経済官僚
徳川家斉 11代将軍・伯父
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