著名自分史「徳川斉昭」

オリジナル

徳川 斉昭

とくがわ なりあき

徳川 斉昭

1800年~1860年

70

会沢正志斎・藤田東湖の水戸学・尊皇攘夷論を実践し幕末維新の幕を開いた過激な「水戸烈侯」、将軍継嗣問題で大老井伊直弼に敗れ悲嘆死したが七男の徳川慶喜が悲願の将軍位を掴み嫡流の水戸家と共に最高位の公爵を受爵

寸評

基礎点 80点 徳川斉昭は、「尊皇攘夷の総本山」にして御三家水戸藩の国主の立場から幕府政治に激しく口を出し、将軍継嗣問題で大老井伊直弼に敗れ失意死し水戸天狗党は壊滅したが、全国尊攘派志士のカリスマとなり薩摩藩の英主島津斉彬と共に幕末維新の幕開け役を演じた。徳川斉昭の死後、七男の徳川慶喜は将軍位に就いて亡父の無念を晴らし、明治維新後は嫡流の水戸藩主家と慶喜家が最高位の公爵に叙された。徳川斉昭は非業の死を遂げたが、生きていても御三家水戸藩を進んで討幕戦に投入するわけにはいかず、尊攘派と佐幕派の板挟みで苦しむことになったであろう。好色の限りを尽くし、10人の妻妾を侍らして37人もの子を生した。
-10点 徳川斉昭は、大名としては優秀な部類だったようだが、過激な言動の割に大した政治的成果は無い。また水戸藩は、国主の徳川斉昭が尊攘運動の先駆となりながら藩内守旧派を抑えられず挙藩運動に失敗、斉昭没後は急速に佐幕化して尊攘派の天狗党は壊滅し明治維新に直接的に貢献することはできなかった。将軍継嗣問題で一橋派が敗れた原因は、首領である徳川斉昭の個人的不徳が大であった。過激で短慮な言動を連発する徳川斉昭は保守派揃いの幕閣に嫌われ、奔放過ぎる女性遍歴をあげつらわれ大奥にも毛嫌いされた。安政の大地震で圧死した藤田東湖に代わるブレーンがおらず、井伊直弼の謀臣長野主膳に対抗できなかったのも痛かった。

史実

1800年 7代水戸藩主徳川治紀の三男徳川斉昭が江戸小石川藩邸にて出生

1804年 ロシアのレザノフが長崎で通商を要求

1808年 フェートン号事件~オランダ船を追ってイギリス船が長崎に侵入

1816年 伊能忠敬の『大日本沿海輿地全図』完成

1816年 徳川治紀が死去し嫡子の徳川斉脩が8代水戸藩主となる

1817年 イギリス船が浦賀に来航

1821年 彰考館の会沢正志斎が水戸藩主徳川治紀の諸公子の侍読に任じられ徳川斉昭を尊皇攘夷思想に教化

1824年 イギリス捕鯨船員の常陸上陸事件、徳川斉昭の水戸藩を中心に攘夷熱が高まる

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1825年 水戸藩の会沢正志斎が尊王攘夷の思想書「新論」を著作

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1825年 異国船打払令

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交遊録

徳川光圀 水戸学を興した2代水戸藩主
徳川治紀 父・7代水戸藩主
徳川斉脩 兄・8代水戸藩主
徳川慶篤 嫡子・10代水戸藩主
徳川慶喜 七男・一橋派の旗印
藤田幽谷 水戸学の泰斗・彰考館総裁
藤田東湖 幽谷次男・優秀な謀臣
藤田小四郎 東湖四男・天狗党の乱首謀者
会沢正志斎 幽谷後継の彰考館総裁・水戸学の先生
武田耕雲斎 天狗党の乱首領
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