「鍋島 直正」のエピソード

鍋島 直正

(なべしま なおまさ)

1815年~1871年

大老井伊直弼の暗殺で中央政局から離脱するも佐賀藩の富国強兵と洋式軍備導入に専念し、戊辰戦争が起ると幕末最強の最新兵器を投入し「薩長土肥」に滑り込んだ開明的専制君主

鍋島直正は、大老井伊直弼の暗殺で中央政局から離脱するも佐賀藩の富国強兵と洋式軍備導入に専念し、戊辰戦争が起ると幕末最強の最新兵器を投入し「薩長土肥」に滑り込んだ開明的専制君主である。志士活動を封印された江藤新平・大隈重信・副島種臣・大木喬任らは薩長藩閥に切歯扼腕し鍋島直正の出遅れを恨んだが、最強軍備を蓄えた佐賀藩は血を流すことなく明治政府で漁夫の利を占め多くの実務官僚を輩出した。幕府は長崎を直轄領としたが警備役を命じられた佐賀藩は代々膨大な出費を強いられ、フェートン号事件では藩主鍋島斉直が閉門に処されたが、佐賀藩は逸早く西洋文明に覚醒し「蘭癖」の鍋島直正が出て幕末随一の技術力と洋式軍備を整えた。鍋島斉直の十七男ながら若年で佐賀藩主を継いだ鍋島直正は、先ず藩校弘道館の拡充を指示して人材の涵養を図り、経費節減・債務減免や交易促進など大胆な藩政改革により破綻に瀕した財政を再建、日本初の反射炉を建設して洋式砲の鋳造を開始し、技術開発のため「精煉方」(招聘した田中久重は東芝を創業)および「三重津海軍所」(国産初の実用蒸気船「凌風丸」を建造)を開設、ペリー艦隊が迫ると長崎沖合に砲台を築き大砲の大量生産に着手した。「技術立国」を果した鍋島直正は中央政界へ進出、幕府の品川台場(砲台)や伊豆韮山反射炉に技術供与して老中安倍正弘の信任を獲得し、大老井伊直弼の親友となり将軍継嗣問題で従兄弟の島津斉彬ら一橋派「四賢候」に勝利したが、桜田門外の変が起ると身の危険を察知して佐賀へ引込み嫡子の鍋島直大に佐賀藩主を譲った。以後の鍋島直正は黙々と洋式軍備を蓄え(自家製より輸入が主体)、藩士の尊攘運動を抑え幕府・薩摩藩双方の出兵要請を黙殺したが、鳥羽伏見の戦いで官軍が圧勝すると決然と参戦を表明し江藤新平に出陣を命令(徳川慶喜は「鍋島直正はずるい人だった」と述懐)、洋式銃器で武装した精強佐賀軍は函館戦争まで転戦し最新鋭のアームストロング砲は上野彰義隊や会津若松城の攻略に威力を発揮した。鍋島直正は、薩長土肥の4藩主連署の版籍奉還に従い、初代開拓使長官に就いたが、廃藩置県の直後に58歳で病没した。
15歳で佐賀藩主に就いた鍋島直正は、父の鍋島斉直の存命中は思い切った藩政改革に着手できなかったが、直ちに藩校弘道館の拡充を指示し藩士教育に力を注いだ。佐賀藩のスパルタ教育は有名で、藩士に弘道館での就学を義務付けたうえ、成績良好でないと藩庁の上級職につけないシステムであった。日本一の藩校といえば熊本藩の時習館であり、弘道館も発足当初は時習館に倣ったが、鍋島直正の改革により弘道館は近代的教育機関に発展し時習館を凌駕した。明治維新後、政治活動に専心した薩長土と比較して佐賀藩は優秀な実務官僚を多く輩出したが、志士活動で実績が乏しい佐賀藩士が薩長に互して出世できたのは佐賀藩の教育熱と鍋島直正の恩恵といえるだろう。参議に上り詰めた大隈重信・副島種臣・江藤新平・大木喬任は佐賀藩内では尊攘派であったが志士実績は皆無といってよく、専制君主の鍋島直正に抑え付けられたとはいえ土佐藩の中岡慎太郎・坂本龍馬・吉村寅太郎や久留米藩の平野国臣のように脱藩浪士として名を成した佐賀藩士もいない。なお、「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」の「葉隠」は佐賀藩士山本常朝の著作で、新渡戸稲造の「武士道」で有名になったが、武士の死に様を説くとか切腹を美化するといった哲学書ではなく、武士の処世マニュアル的色彩が濃く、鍋島氏への徹底的な忠誠を奨励する教科書であった。「釈迦も孔子も楠も信玄も、かつて鍋島家に奉公したることなき人々なれば、崇敬するに足りず」という恐ろしく偏頗な内容で、天下国家を論じる幕末の時勢には全く馴染まず、大隈重信らは「葉隠」を核とする教育方針に猛反発し藩庁に改革を願出たが、守旧派が支配する佐賀藩庁に拒絶された。藩校弘道館から追放された大隈重信は、蘭学寮を経て長崎へ遊学、フルベッキに学んだ洋学と語学力をもって明治政府で台頭した。「葉隠」が日本人一般に普及したのは第二次大戦末期のことで、軍部が不合理な特攻攻撃(自爆攻撃)を正当化するため「武士道=死=特攻」の部分だけを抜き出して宣伝に努めたことによる。
鍋島直正は「蘭癖」といわれるほどの開明派であったが、ペリー来航に際して幕府から意見を求められると「夷荻ども傲傲の振る舞い、断固打ち払い」を主張し、長州藩の攘夷決行(下関事件)を高く評価した。。政敵となる「四賢候」と同様に「まずは武威を示し然る後に洋式軍備を導入し外夷を打払うべし」という「大攘夷」を唱えたか、或いは対外交渉窓口は長崎という原則の遵守を強調したのかも知れない。鍋島直正は洋式兵器の自藩製造を志し「精煉方」を開設したが、叔父の鍋島茂義(支藩の武雄藩主)の影響も大きかった。鍋島茂義は、長崎町年寄として下向した高島秋帆に弟子入りして西洋式砲術や科学技術を学び、オランダ人と親密に交流、雄藩に先駆けて武雄藩の軍備と軍制を洋式化した傑物であり、精煉方では自ら蒸気船建造の責任者に任じた。なお、幕府と雄藩は競って洋式兵器製造に取組んだが、先ず必要な設備は鉄製砲身の鋳造に欠かせない反射炉であり、幕府(伊豆韮山)と薩長は反射炉の実用化に成功したが、先駆となって技術開発をリードしたのは鍋島直正の佐賀藩であった。佐賀藩は、幕府や他藩が及ばない水準まで鋳造技術を高め、アームストロング砲に代表される最新式の洋式大砲・鉄砲の自藩製造に唯一成功、また洋式蒸気船の開発にも取組み国産初の実用蒸気船「凌風丸」の建造を成功させた。ただし、幕末時点では佐賀藩でも製造より輸入の方が安上りで、戊辰戦争に投入された銃器・軍艦の主体は輸入品であった。佐賀藩の精煉方で技術革新を牽引したのは「東洋のエジソン」田中久重である。田中久重は久留米出身の細工職人で、上方へ出て機械仕掛けの技術を磨き「からくり儀右衛門」と称され大評判をとった。西洋技術も習得した田中久重は、緒方洪庵の適塾に学んだ佐野常民の勧めで鍋島直正の佐賀藩に出仕し、精煉方の技術開発職に就いて反射炉や凌風丸の建造を主導、日本初の蒸気機関車・蒸気船の模型も製作した。1864年故郷の久留米藩へ転籍し西洋技術導入に貢献、1873年東京に移住し東芝の前身とされる「田中製造所」を創立した。
龍造寺氏は、平安末期に肥前小津郡龍造寺の地頭となった高木季家を祖とし、室町後期に主家の九州千葉氏と共に肥前守護少弐氏の被官となったが、少弐政資・高経父子が宿敵大内義興に攻め滅ぼされ次男資元は生延びるも少弐氏は肥前の一勢力に没落した。龍造寺家兼は、大内義隆(義興の嫡子)が派遣した杉興連の大軍を撃退して武名を挙げ(田手畷の戦い)、大内義隆(義興の嫡子)と通謀して主君資元を滅ぼし東肥前の戦国大名へ台頭したが、肥前の領袖有馬晴純の助勢を得た少弐一門の馬場頼周の反撃に遭って龍造寺家純・家門の二児と孫4人を殺害された。筑後へ逃れた家兼は柳川城主蒲池鑑盛の力添えで肥前へ攻め戻り頼周・政員父子を討って仇討ちを果したが間もなく病没、虐殺を逃れた曾孫の龍造寺隆信が還俗して家督を継いだ。龍造寺隆信は、後嗣無く死去した龍造寺胤栄の未亡人を娶って龍造寺本家を横領し、政家・家種(江上氏養子)・家信(後藤氏養子)の三児をもうけた。娘は蒲池鎮漣(大恩人鑑盛の嫡子)に嫁がせたが、隆信は肥後柳川上を奪うため鎮漣を謀殺した。沖田畷の戦いで隆信が斃れた後、嫡子の龍造寺政家は島津義久に降伏し九州征伐を終えた豊臣秀吉から肥前佐賀城32万石を安堵されたが、沖田畷合戦を辛くも生延びた鍋島直茂(隆信の従弟で筆頭重臣)が凡庸な政家に代わって家政を握り関ヶ原合戦では西軍に加担するも巧みな善後策でお咎め無し、龍造寺信周・長信(隆信の弟)を懐柔して政家と嫡子高房に禅譲を迫り佐賀藩簒奪を完遂した(直茂は龍造寺遺臣を慮って藩主には就かず嫡子鍋島勝茂を初代藩主に据えた)。龍造寺高房は江戸桜田藩邸で妻(直茂の養女)を刺殺して自殺を図るも果たせず、佐賀に戻って自殺を遂げ、僅か1ヵ月後に政家も死去した。こうして龍造寺隆信の嫡流は滅ぼされたが、鍋島氏の宥和政策により信周・長信の子孫は龍造寺四家として鍋島一門に準じる優遇を受けた。
国学者で佐賀藩校弘道館教授の枝吉神陽が発起人となり義祭同盟を結成、江藤新平・大隈重信・副島種臣(枝吉の実弟)・大木喬任・島義勇ら38人の尊攘派藩士が加盟した。南朝の忠臣楠正成を讃える祭祀の奨励を表向きの目的としたが、実態は佐賀藩尊攘派の政治結社であり、長州における松下村塾に比肩されることもある。しかし、佐賀藩主鍋島直正の意を動かして挙藩運動に乗出すことはできず、逆に危険視され形骸化していった。江藤新平・大隈重信・副島種臣・大木喬任・島義勇らは、佐賀藩内では革新派と目され、明治維新後は薩長の専横に反抗する勢力を代表する形で参議に出世したが、幕末の志士活動においてはほとんど何もしていない。専制君主の鍋島直正が藩士の政治活動を抑制したことが主因だが、土佐藩の中岡慎太郎・坂本龍馬・吉村寅太郎や久留米藩の平野国臣のように脱藩して浪人運動に身を投じる選択肢はあり、実際に江藤・大隈・副島は脱藩を経験したが不徹底であった。「大風呂敷」の大隈重信は後年「徳川慶喜に会って大政奉還を実現させようとした」などと語ったが、実情は薩長の回りをウロチョロした程度で全くのホラ話である。
大隈重信は、語学力と外国人相手の「対外硬」で明治政界に売出した。佐賀藩の上級藩士だった大隈重信は、江藤新平・副島種臣・大木喬任らと尊攘派グループを組み、お家大事の『葉隠』教育に反抗し藩校弘道館を追われたが、藩の蘭学寮に学びフルベッキの英学塾「致遠館」で教頭格となった。井伊直弼に肩入れした鍋島直正は佐賀に逼塞し藩士の政治活動を禁じたが鳥羽伏見戦後に官軍参加を表明、脱藩罪を赦された大隈重信は長崎裁判所に派遣され副参謀として関税問題などにあたった。この頃、幕府長崎奉行所が浦上のキリシタン68人を逮捕した「浦上四番崩れ」が外交問題化しパークス英公使は明治政府に信徒の赦免を強要、薩長人は叱られ役を嫌がり井上馨が推薦した大隈重信を参与兼外国事務局判事に採用した。発奮した大隈重信は恫喝外交のパークスを相手に「信教問題は内政干渉」と突撥ね(結局本件は木戸孝允が片付けたが)、英語音痴の政府首脳にあって外交折衝の第一人者となった。大隈重信は井上馨や伊藤博文ら長州人と親しく西郷隆盛ら無骨な薩摩人を敬遠したが、小松帯刀の推挙により薩長人敬遠で空席の外国官副知事(外務次官)に就任、木戸孝允にも認められ参議兼大蔵卿に昇進した。が、無能な紙幣濫発がインフレを招き政府財政は破綻に瀕した。伊藤博文と共に大久保利通に仕えた大隈重信は、大久保の横死後薩長平等の原則に乗り主席参議に担がれたが、国会開設問題の暴走で長州閥に見放され、開拓使官有物払下げ事件では民権派に煽られ黒田清隆を非難、薩長は提携して「明治十四年政変」を起し大隈一派を政府から一掃した。福澤諭吉に師事する大隈重信は立憲改進党の党首に担がれ、井上馨から外相職を奪うも条約改正に行詰り玄洋社員に爆弾を投げられ右脚を失った。一命を取留めた大隈重信は、岩崎弥之助・三菱の援助で東京専門学校(早稲田大学)を創設し、日清戦争では伊藤博文内閣を軟弱外交と非難、板垣退助と合同して「隈板内閣」を成立させるも内部分裂により4ヶ月で瓦解、70歳を前に政界引退を表明したが井上馨の誘惑に飛付いて第二次大隈内閣を組閣し薩長藩閥のために働き「対華21カ条要求」の愚を犯した。
ペリー来航後、和親条約の是非を巡って幕閣と世論は攘夷派と開国派の真二つに割れた。攘夷派の急先鋒は水戸藩の徳川斉昭であり、雄藩連合による公武合体を目指す四賢候(薩摩藩主島津斉彬・福井藩主松平春嶽・宇和島藩主伊達宗城・土佐藩主山内容堂)らが斉昭を支持し、老中首座安倍正弘が譜代諸侯との調整に努めた。ただし、単純に外国人を打払えというような「小攘夷」ではなく、外圧による和親条約締結は拒否したうえで洋式軍備を整え、富国強兵を推進して国威を発揚し、西洋列強に立ち向かうべきとする「大攘夷」が四賢候ら開明派の主張であった。そうした政策を推進するため、慶喜将軍を擁立し、従来譜代大名が独占してきた幕閣に春嶽を送込み雄藩連合への道を開くことを当面の政治目標とした。一方、井伊直弼を筆頭とする譜代諸侯の多くは、従来どおりの譜代諸侯による幕政運営に固執し、政治的に対立する立場から開国政策を主張した。さらに、13代将軍徳川家定の将軍継嗣問題が両派の対立に拍車をかけ、前者は斉昭の実子で優秀と目されていた徳川慶喜を推す一橋派を形成し、後者は血縁重視で徳川家茂を推す南紀派となって、激しく主導権を争った。
13代将軍徳川家定に子供がなかったため、幕閣・諸侯を巻込んだ将軍継嗣問題が起った。家定との血縁の近さを理由に紀州藩主徳川家茂を推す南紀派と、12歳の家茂よりも英邁といわれた徳川慶喜をたてようとする一橋派が激しく対立した。南紀派は守旧派の譜代大名グループで譜代筆頭彦根藩主井伊直弼が主導し、会津藩主松平容保・佐賀藩主鍋島直正や大奥が強力に後押しした。一橋派は、慶喜の実父で前水戸藩主の徳川斉昭を筆頭に、松平春嶽・島津斉彬・伊達宗城・山内容堂の四賢候、尾張藩主松平慶勝らが与した。四賢候は雄藩連合による公武合体を目指すグループで、将軍継嗣問題をその実現のための手段と考え、活発に運動した。しかし、長野主膳の謀略によって井伊直弼が大老に就任し強権を発動して電撃的に徳川家茂の将軍就任を断行、徳川斉昭の女漁りを毛嫌いする大奥の協力で徳川家定の言質をとったのが決定打となった。徳川家定は精神障害者で男性機能がなく美男子の徳川慶喜に嫉妬し嫌っていたといい、家定に篤姫を入輿させた薩摩藩主島津斉彬の策謀は失敗に終わった。
島津斉彬・松平春嶽・山内容堂・伊達宗城は幕末四賢候と称される。四賢候は公武合体による雄藩連合体制(譜代大名が牛耳ってきた幕府政治への参画)を目指し、将軍継嗣問題と絡めて一時政局をリードした。しかし、南紀派の井伊直弼が大老に就任して徳川家茂の将軍擁立を強行、徳川慶喜を推した四賢候ら一橋派は敗北し安政の大獄で弾圧された。四賢候の手足となって中央政局で活躍したのは謀臣の西郷隆盛(薩摩藩)・橋本左内(福井藩)・吉田東洋(土佐藩)・藤田東湖(水戸藩)らであった。松平春嶽は後年「世間では四賢侯などというが、本当の意味で賢侯だったのは島津斉彬公お一人であり、自分はもちろんのこと、水戸烈侯、山内容堂公、鍋島直正公なども到底及ばない」と語ったという。
島津斉彬・久光は共に島津斉興の実子だが斉彬は嫡子で久光は庶子、斉彬を嫌う斉興は久光の擁立を画策したが藩主ながら身分制の壁に阻まれた。斉興正室の弥姫(周子)は鳥取藩主池田治道の娘、和漢の教養ある賢婦人で自らの手で斉彬を育てたといい、姉妹は佐賀藩主の鍋島斉直に入輿し直正を産んだ。従兄弟の島津斉彬と鍋島直正は幼少期から共に優秀で競争心があったかも知れず、斉彬が一橋派に与したのに対し直正は大老井伊直弼の親友だった。鍋島直正は、桜田門外事変後は中央政局に距離を置き西洋軍備の導入と藩士教育に注力、戊辰戦争の帰趨が決してから官軍に鞍替えしたがアームストロング砲など最新兵器の威力で肥前佐賀藩は薩長土肥の一角に滑り込んだ。さて島津斉彬は、徳川斉敦(将軍徳川家斉の実弟で一橋家当主)の娘英姫を正室に迎え、六男二女を生したが悉く夭逝し男系は断絶した。一方、島津久光を産んだお由羅の方は、江戸庶民の出自で(父親は船問屋・大工・八百屋など諸説あり)江戸薩摩藩邸へ奉公に上り、藩主斉興のお手が付いて老女島野の養女として側室に入った。江戸藩邸の正室弥姫に対し由羅は薩摩の「お国御前」とされ参勤交代の度に同行するほど寵愛された。由羅の囁き故かは不明だが、斉興は久光擁立を企て薩摩藩を二分する抗争が勃発、斉彬は後援者の主席老中阿部正弘と謀り琉球密貿易を事件化して実力者の調所広郷を自害させ、兵道家(山伏)による斉彬一家の呪詛調伏を弾劾したが反撃され壊滅(お由羅騒動)した。結局、阿部正弘の強権発動で斉興は隠居し斉彬が家督を奪ったが、呪詛の霊験か六男二女は悉く夭逝し斉彬も率兵上洛の直前に突然死、健在の斉興は久光長子の島津忠義を薩摩藩主に据え実権を奪回した。斉彬は琉球解放を危惧した斉興に毒殺された疑いが強く、そう信じた西郷隆盛は久光を毛嫌いし楯突いて遠島に処された。島津久光は、正室千百子との間に四男を生し、長子の忠義が島津宗家を継ぎ他の3人は各々島津分家を相続した。久光は維新の大功により分家を許され公爵玉里家を創設、側室の山崎武良子に産ませた島津忠済に相続させた。
島津斉彬は、曽祖父の島津重豪の薫陶で幼少から西洋文明に親しみ、西欧列強の帝国主義を知って日本の国難を憂い中央政界進出を志したが、重豪とは違い生活は質素であったという。好奇心旺盛で多趣味な島津斉彬は、蘭学のほかにも絵画・和歌・茶道・囲碁・将棋・釣り・朝顔栽培を嗜み、大柄の怪力で武芸もよくした。老中阿部正弘・将軍徳川家慶を動かし強硬手段で薩摩藩主に就いた島津斉彬は、隠居に追込んだ父の島津斉興に気を遣い閣僚をそのまま引継いだが、一方で西郷隆盛や大久保利通など有能な下級藩士を登用し育成した。勝海舟は斉彬の資質を高く評価し、薩摩藩が維新に多くの人材を出したのは斉彬の教化によるものだと語っている。島津斉彬は鹿児島市磯地区を中心にアジア初の近代的洋式工場群を建設した(集成館事業)。特に製鉄・造船・紡績に力を注ぎ、反射炉・溶鉱炉の建設に始まり、鉄砲・大砲に武器弾薬、洋式帆船に機械水雷の製造、ガス灯の実験など幅広い事業を展開した。鹿児島城下の民家全部の燈火をガス燈にする計画だったという。斉彬没後、財政問題などから集成館事業は一時縮小されたが、後に小松帯刀が再興に尽力した。薩摩藩は、薩英戦争の苦い経験から洋式技術導入の重要性を再認識し、集成館機械工場を再建、日本初の紡績工場である鹿児島紡績所を建造するなど日本の産業革命をリードした。
松平春嶽は、島津久光の文久の改革で幕政を握るも徳川慶喜の暴走を許し公武合体に挫折、徳川家擁護で「薩長土肥」入りを逃したが横井小楠を招き福井藩で民主主義を育んだ「四賢候」である。御三卿田安家の八男ながら従兄の将軍徳川家慶の後援で福井藩主となり、将軍徳川家定の継嗣争いで徳川慶喜を担ぎ一橋派「四賢候」に数えられたが、大老井伊直弼に敗れ藩主職を奪われた。が、薩摩藩の島津久光が率兵江戸へ乗込みクーデターを成功させると、松平春嶽は政治総裁職に就き将軍後見職の徳川慶喜と共に幕政を掌握した。松平春嶽は徳川慶喜を大所高所に置き実質的な政権運営は自ら行う腹積りであったが、慶喜は意外にも我を張り「公武合体のためには攘夷やむなし」と主張する春嶽に対し「攘夷など無理」と対抗、外国人嫌いの孝明天皇は「即時攘夷」に固執し参預会議は膠着状態に陥った。松平春嶽は、会津藩主松平容保に汚れ役の京都守護職を押付けながら自分は政治総裁職を放出し福井へ帰国、横井小楠の献策に従い公武合体政権を樹立すべく「挙藩上洛計画」を試みたが中根雪江ら守旧派の反対で頓挫した。禁門の変後、専横を強める徳川慶喜は京都に「一会桑政権」を樹立し長州征討を強行、松平春嶽の福井藩は幕府軍の主力を担ったが、征長軍全権の西郷隆盛は宥和的措置で矛を収めた。高杉晋作が長州藩政を奪回すると徳川慶喜は長州再征を断行したが、薩摩藩は薩長同盟へ転じ幕府軍はまさかの完敗、松平春嶽は薩摩藩の側に立って長州赦免を説いたが慶喜は小栗忠順の日仏同盟構想を頼みに妥協を拒否、島津久光は西郷隆盛・大久保利通に討幕のゴーサインを出した。徳川慶喜は大政奉還で体制温存を図ったが薩摩藩は小御所会議で辞官納地を強要、松平春嶽は山内容堂と共に反抗したがねじ伏せられ自ら慶喜への伝達使を務めた。板垣退助の参戦を黙認した土佐藩の山内容堂と異なり、松平春嶽は戊辰戦争に距離を置き、横井小楠や由利公正が新政府の参与に任じられたものの福井藩は「薩長土肥」に入れなかった。薩長の公爵・土肥の侯爵に対し福井藩主松平茂昭は家格並の伯爵に留められたが、勝海舟らの運動により特別に侯爵を与えられた。
徳川斉昭は、会沢正志斎・藤田東湖の水戸学・尊皇攘夷論を実践し幕末維新の幕を開いた過激な「水戸烈侯」、将軍継嗣問題で大老井伊直弼に敗れ悲嘆死したが七男の徳川慶喜が悲願の将軍位を掴み嫡流の水戸家と共に最高位の公爵を受爵した。会沢正志斎らに感化され「水戸学派」「天狗党」の奔走で水戸藩主に就任した徳川斉昭は、門閥重臣や守旧派「諸生党」と死闘を演じつつ幕政に乗込み洋式軍備導入と藩政改革を推進したが、諸生党の幕閣工作で隠居を迫られ嫡子の徳川慶篤に家督を譲った。が、老中安倍正弘に取入った徳川斉昭は、諸生党首領の結城朝道を失脚させ政界に復帰、ペリー艦隊が来航すると「四賢候」と共に「攘夷の後に洋式軍備を整え開国すべし」という「大攘夷」の論陣を張り幕政を牛耳る井伊直弼ら譜代大名と対立、幕府海防参与に就任し大砲74門や洋式帆船「旭日丸」を献上した。生殖能力の無い徳川家定が13代将軍に就任すると、徳川斉昭と四賢候は一橋家に入嗣し将軍資格のある徳川慶喜の擁立を図りつつ開国政策を非難し安政五ヶ国条約の「破約攘夷」を主張(一橋派)、血縁重視で紀州藩主徳川家茂を推す井伊直弼らと対立した(南紀派)。徳川斉昭は、南紀派の老中松平乗全・忠固を更迭させ宿敵の結城朝道を死罪に処したが、安政の大地震でブレーンの藤田東湖を喪い後ろ盾の阿部正弘も過労死、非常職の大老に就いた井伊直弼は条約の無勅許調印と徳川家茂の将軍就任を断行し安政の大獄を発動した。薩摩藩主の島津斉彬が井伊打倒を掲げ率兵上洛を宣言するも突然死、「戊午の密勅事件」で強硬化した井伊直弼は江戸城に無断登城した徳川斉昭・慶喜を蟄居に処し松平春嶽・徳川慶勝の藩主職を剥奪、橋本佐内・梅田雲浜・吉田松陰ら尊攘派志士も殺され一橋派は壊滅した。徳川斉昭の意を受けた水戸天狗党の関鉄之助らが江戸城桜田門外で井伊直弼を殺害、全国の尊攘運動は勢いを増したが、逆に水戸藩では諸生党が実権を握り失意の徳川斉昭は急逝、追詰められた武田耕雲斎らが4年後に天狗党の乱を引起し水戸藩は完全に幕末政局から脱落した。
2代水戸藩主の徳川光圀が始めた「大日本史」編纂事業は幕末まで連綿と受継がれ、「水戸学」は修史局「彰考館」から全国へ伝播し幕末「尊皇攘夷」の行動原理となった。藤田幽谷は、水戸城下の古着商の子ながら学問に優れ水戸藩に出仕、師の立原翠軒より彰考館総裁を承継し、私塾「青藍舎」に会沢正志斎・藤田東湖(幽谷次男)・武田耕雲斎・戸田忠太夫・豊田天功・山野辺義観・安島帯刀・青山拙斎ら多くの門人を擁し水戸学の藩外普及活動を推進した。彰考館総裁を継いだ会沢正志斎は、7代藩主徳川治紀の諸公子の侍読に任じられ徳川斉昭を教化し、尊王攘夷思想を理論的に体系化した「新論」を8代藩主徳川斉脩に上呈、内容が過激なため出版はされなかったが、「水戸学派」の奔走で藩主に就いた徳川斉昭は会沢を藩校弘道館の初代教授頭取に迎え筆写版「新論」は全国へ広がり尊攘派志士の必読書となった。藤田東湖は、徳川斉昭の側近として藩政改革と一橋派の尊攘運動を牽引した。が、日本全国を襲った安政の大地震で江戸小石川の水戸藩邸も崩落、藤田東湖は一旦脱出するも母親の救出に戻り梁の落下で圧し潰され儒学が最上とする孝に殉じた。藤田東湖は水戸学・尊皇攘夷のイデオローグにして西郷隆盛や橋本左内も薫陶した全国志士の領袖的人物、謀臣を失った徳川斉昭の政治力は致命的打撃を受け、天狗党は支柱を喪い水戸藩の尊攘運動が衰亡へ向う一大転機となった。藤田東湖・戸田忠太夫と共に「水戸の三田」と称された武田耕雲斎は、徳川斉昭の死に伴い失脚、追詰められた藤田小四郎(東湖の四男)が天狗党を率いて挙兵すると止む無く首領に担がれた。天狗党は、徳川慶喜の水戸藩主擁立を目的に掲げ慶喜の意に反し横浜開港を進める幕府を諌めるべく800人で決起、京都へ向け中山道を進軍し美濃鵜沼宿で街道封鎖に遭い北路をとったが、黒幕の慶喜が裏切り追討軍に加わるに至って敦賀で幕府軍に投降、武田耕雲斎・藤田小四郎ら352人が斬首された。水戸藩は佐幕派諸生党の天下となり尊攘運動は壊滅、徳川慶喜の横浜鎖港運動も頓挫した。
徳川慶喜は、大老井伊直弼に14代将軍就任を阻まれたが島津久光の文久の改革で幕政を掌握、長州征討を強行するもまさかの完敗で薩摩藩は薩長同盟へ鞍替え、大政奉還で体制温存を図り辞官納地を拒否しながら土壇場で恭順へ転じた最後の将軍である。股肱の臣である松平容保・定敬兄弟と新撰組、小栗忠順ら抗戦派幕臣をあっさり見捨て、宗家・慶喜家・水戸家の徳川3家が最高位の公爵に叙され慶喜は徳川将軍中最高齢の77歳まで生延びた。水戸藩主徳川斉昭の七男で御三卿一橋家に入嗣した徳川慶喜は、一橋派の将軍候補に担がれたが安政の大獄で挫折した。が、薩摩藩の島津久光は、率兵江戸へ乗込み徳川慶喜を将軍後見職・松平春嶽を政治総裁職にねじ込み、八月十八日政変で「破約攘夷」の長州藩を締出し「参預会議」で公武合体を実現した。が、禁門の変で自信を深めた徳川慶喜が専横を強め参預会議は挫折、禁裏御守衛総督に就いて半独立の気勢を示し、松平容保・定敬を京都守護職・所司代に任じて京都を制圧(一会桑政権)、武力補強のため水戸天狗党を呼び寄せたが幕府が強硬策に出ると自ら追討軍に加わり捨て殺しにした。幕威発揚を期す徳川慶喜は長州征討を断行、長州藩は恭順し征長軍全権の西郷隆盛は宥和的措置で矛を収めたが、高杉晋作が長州藩政を奪回し再び幕府に挑戦した。徳川慶喜は直ちに長州再征を号令したが、薩摩藩の妨害で足止めされ薩長同盟が成立、6万の大軍ながら軍備に劣る幕府軍は高杉晋作・大村益次郎の洋式軍隊に完敗し大阪城の将軍徳川家茂も急死、小倉城陥落で慶喜は「長州大討入り」を撤回した。小栗忠順の日仏同盟構想(売国的条件による借款と軍事支援)に力を得た将軍徳川慶喜は、参預会議で長州藩赦免を拒否し薩摩藩は討幕を決意、「徳川家を盟主とする大名共和制」を期待し大政奉還するも辞官納地を強要された。大阪城の徳川慶喜は無視し諸外国に徳川政権継続を宣言したが、鳥羽伏見の敗報に接すると軍艦で江戸へ逃げ戻り上野寛永寺に謹慎、主戦派を追放し恭順派の勝海舟に全権を委ねた。徳川宗家を継いだ徳川家達は駿府70万石から公爵に叙され、徳川慶喜も公爵・貴族院議員に栄達した。
水戸藩主には江戸常府が義務付けられ公子は江戸藩邸で養育されるのが通例であったが、享楽的な江戸の風俗に馴染ませたくないという徳川斉昭の配慮により徳川慶喜は一橋家に入るまでのほとんどの期間を水戸で養育された。徳川斉昭自身は10人の江戸で妻妾を侍らし享楽生活を送ったが、息子には厳しかったようである。徳川慶喜は、父の徳川斉昭と同じく会沢正志斎ら水戸学の権威に薫陶され、少年期から英才を謳われ将来を嘱望された。12代将軍徳川家慶は、徳川慶喜に目を掛け偏諱を賜い、病弱な嫡子の徳川家定よりも優秀な慶喜を世子に立てようとしたが老中安倍正弘の諫止で思い止まったという。徳川慶喜は将軍家慶の計いで嗣子の無い一橋昌丸に入入嗣した。一橋家は田安家・清水家と並ぶ御三卿の一つである。御三卿は、8代将軍徳川吉宗が自分の血統で将軍を独占するために立てた家で、御三家(紀州藩・尾張藩・水戸藩)に次いで将軍を出す資格があるとされた。さて、13代将軍となった徳川家定は、精神薄弱児ながら徳川慶喜に嫉妬し、大奥に促されて徳川家茂を将軍継嗣にすると述べたといい(真偽不明)、将軍の言質を得た大老井伊直弼は徳川家茂の14代将軍就任を強行した。
井伊直弼は、「譜代筆頭」彦根藩主として幕政に乗込み「魔王」長野主膳の暗躍で大老に就き安政五ヶ国条約の無勅許調印と徳川家茂の将軍就任を強行、安政の大獄で反抗勢力を大弾圧したが桜田門外の変で落命した。彦根藩主の子ながら十四男の井伊直弼は、自己研鑽に励んで養子の口を求めたが果たせず、生涯を不遇で終わる覚悟を決め三の丸尾末町の居宅を「埋木舎」(現存)と自嘲した。無聊な部屋住み生活のなか、学問・武芸はもちろん禅・書・絵・歌・茶道・能楽などあらゆる芸事に手を染め、得意の居合道では一派を開き、狂言制作や能面作りにも精通、茶道の「一期一会」を広めたのは井伊直弼といわれる。学問・思想的には国学に傾注し町学者の長野主膳を師と仰いだ。35歳まで不遇を託った井伊直弼だが、藩主の長兄と世子の次兄が相次いで無嗣没する幸運に恵まれ彦根藩主に就任、門外漢の長野主膳を謀臣に抜擢し幕府政治に乗込んだ。彦根藩では藩政改革を進めつつ堅実な善政を敷き名君と讃えられたいう。徳川慶喜から「才略には乏しいが、決断力のある人物」と評された井伊直弼は、才略は長野主膳で補い忽ち譜代大名・守旧派の領袖へ台頭、徳川家定の将軍継嗣問題が起ると紀州藩主徳川家茂を担いで南紀派を形成し、徳川斉昭・「四賢候」の一橋派と対立した(なお佐賀藩主鍋島直正と会津藩主松平容保は南紀派)。老中阿部正弘の急死で幕閣の理解者を喪った一橋派は、老中首座堀田正睦の条約勅許失敗で攻勢を強め、松平春嶽・島津斉彬と謀臣の橋本左内・西郷隆盛の奔走で徳川慶喜の将軍勅許寸前まで漕ぎ着けた。が、長野主膳は謀略を駆使して井伊直弼を大老に就かせ大奥と将軍徳川家定を篭絡して徳川家茂の将軍就任を強行、安政の大獄を発動した。島津斉彬の突然死で薩摩藩率兵上洛の脅威が去り、「戊午の密勅」に激怒した大老井伊直弼は一橋派諸侯を引退に追込み志士狩りを断行したが、恐怖政治は1年も続かず徳川斉昭の意を受けた水戸浪士らが江戸城桜田門外で井伊を殺害した。一時逼塞した全国の尊攘派志士は拍手喝采し幕府不要論が萌芽、逆に幕府は融和路線へ転じ一橋派諸侯を赦免した。
「幕末の魔王」長野主膳は、稀世の美男子で学識豊富・上品高雅な威厳に満ち、権謀術数を駆使して井伊直弼の大老就任から安政の大獄を差配したといわれる。怪人らしく前半生は不肖、伊勢滝野村に現れ国学塾を開いた長野主膳は、村の名士滝野次郎左衛門の妹滝を娶り、紀州藩付家老の水野忠央に接近、滝野の援助で近畿・東海道を巡歴したのち近江坂田郡志賀谷村に「高尚館」を開き彦根・京都へも出張って多くの門人を得た。京都では二条家に庇護され多くの公家や諸大夫の島田左近らを弟子にし、彦根藩では不遇期の井伊直弼に取入り政治的な助言も行う間柄となった。彦根藩主に就いた井伊直弼は長野主膳を150石で藩校弘道館の国学教授に召抱え、晴れて腹心となった長野は、水野忠央と紀州藩主徳川家茂の将軍擁立を図り、京都で朝廷工作を担いつつ江戸の幕閣や大奥へも謀略の手を伸ばした。野心家の水野忠央は、大名格の紀州藩付家老の地位に満足せず立藩・幕政参与を望み、妹二人を幕臣の養女に落として将軍徳川家茂に献上し幕府官僚に賄賂攻勢を仕掛けたが、逆に顰蹙を買って老中安倍正弘からも敬遠されていたところで、将軍継嗣問題は渡りに船だった。さて、老中間部詮勝の黒幕として安政の大獄を主導した長野主膳は多くのスパイを操り、島田左近は公家社会上層部の情報網・目明し猿の文吉(妹の君香が島田の妾)は一般社会の密偵として暗躍した。京都政界を戦慄させた島田左近と文吉は高利貸しなどで巨利を貪り「今太閤」と称されたが、久坂玄瑞・武市半平太ら尊攘派が京都で台頭すると真先に「天誅」の標的となった。島田左近は京都木屋町で君香と逢瀬中に田中新兵衛らが斬殺、青竹に刺した首を先斗町川岸に晒され、文吉は岡田以蔵らが三条河原で細引で絞殺、裸体の肛門から頭頂まで竹で串刺し性器に釘を打った姿を晒された。そして長野主膳は、井伊直弼暗殺後もしぶとく彦根藩に留まり100石加増されたが、島田左近の斬殺で空気が一変、彦根藩士らは藩主井伊直憲に強訴して長野を禁固し牢内で縛り首(庶民刑)にした。2年後に成就した和宮降嫁(公武合体策)の発案者は長野主膳であったという。
安政の大獄は大老井伊直弼が断行した徳川慶喜擁立派の大粛清であり、井伊の謀臣長野主膳が京都に乗込み主導したとされる。戊午の密勅事件に激怒した井伊直弼は、密勅降下と条約勅許妨害の首謀者と断じた梅田雲浜を逮捕し、一橋派の徹底弾圧に乗出した。徳川斉昭・徳川慶喜は蟄居に処され、福井藩主松平春嶽・宇和島藩主伊達宗城・土佐藩主山内容堂・尾張藩主徳川慶勝には隠居を強制、他にも一橋派に加担した諸侯や幕府官僚の多くが蟄居や謹慎を課され、梅田雲浜・吉田松陰・橋本左内・頼三樹三郎ら14人もの尊攘派志士が刑死または獄死した。薩摩藩主島津斉彬は、率兵上洛して井伊直弼を打倒する決意を固め、準備工作のため西郷隆盛らを先発させたが、出発直前に突然死し計画は頓挫した(佐幕派の実父島津斉興による暗殺説あり)。安政の大獄により雄藩や尊攘派志士は逼塞し井伊直弼の策謀は一時的に成功したが、逆に反幕府の機運が全国へ広がり、井伊の暗殺(桜田門外の変)を皮切りに尊攘運動は勢いを増し時流は一気に倒幕維新へと流れた。怪しい出自ながら井伊直弼に登用された長野主膳は、正統派国学に基づく万世一系の血統主義を持論とし将軍家と血統が近い徳川家茂の将軍就任を正当化する理論を展開した。13代将軍徳川家定が無嗣没し将軍継嗣問題が起ると、長野主膳は紀州藩付家老の水野忠央と連携し幕閣や大奥に盛んに工作、徳川斉昭の誹謗中傷を流布して大奥の斉昭嫌いを煽った。謀反疑惑はデマだが、真偽取混ぜた女性ゴシップは効果的であり、好色漢徳川斉昭の不徳の致す所であった。窮した一橋派は、老中首座堀田正睦の上洛に伴い雄弁家で美男子の橋本左内(福井藩士)を京都に送込み長野主膳に対抗し、徳川慶喜擁立の勅許を得る寸前まで漕ぎ着けた。南紀派は敗北必死の状況に追詰められたが、長野主膳は大奥を動かして精神薄弱者の将軍徳川家定から強引に言質をとり、井伊直弼を非常職の大老に就任させ徳川家茂の将軍就任を断行、スパイを駆使して安政の大獄を指揮した。井伊直弼暗殺後も長野主膳はしぶとく彦根藩政を握ったが、天誅騒動で失脚し縛り首に処された。
大老井伊直弼は水戸藩に戊午の密勅の返納を強要、水戸天狗党は猛反対したが、藩主徳川慶篤は父の徳川斉昭の承認を得て従った。が、このとき幕閣が水戸藩の改易に言及したため天狗党は激昂し大老井伊直弼の暗殺を決意(徳川斉昭が直接指示を下し愛蔵の象嵌細工の鉄砲を授け、この鉄砲が致命弾を放ったともいわれる)、関鉄之助が指揮する水戸脱藩浪士に薩摩藩の有村雄助・次左衛門兄弟が加わり江戸城桜田門外で登城前の大老井伊直弼を斬殺した(桜田門外の変)。この一挙により幕府は融和路線に転じ全国の尊攘派志士は一層発奮、薩長など雄藩の中央政局復帰への道も開かれた。しかし襲撃犯を出した水戸藩では佐幕派の諸生党が力を得て尊攘派の天狗党が退潮するという皮肉な結果となった。
安倍正弘の急死により一橋派は幕閣における後ろ盾を喪い、南紀派に勢力が傾いて井伊直弼の暴走を招いた。ただ、南紀派と目された老中首座の堀田正睦は一橋派の松平春嶽を大老に推挙したとされる。堀田正睦は安倍正弘の後継として両派の調整を企図していたと思われ、井伊直弼は大老就任後すぐに堀田を閣外へ追出し、徳川家茂の将軍擁立と列強との修好通商条約調印を強行した。松平春嶽は将軍徳川家定の拒絶で老中に就けず一橋派は南紀派に惨敗したが、春嶽は家定を「凡庸の中でも最も下等」とか「イモ公方(家定はお菓子作りが好き自ら芋を煮て食べていた)」などと吹聴し嫌われていたという。
安政の大獄は大老井伊直弼が断行した徳川慶喜擁立派の大粛清であり、井伊の謀臣長野主膳が京都に乗込み主導したとされる。戊午の密勅事件に激怒した井伊直弼は、密勅降下と条約勅許妨害の首謀者と断じた梅田雲浜を逮捕し、一橋派の徹底弾圧に乗出した。徳川斉昭・徳川慶喜は蟄居に処され、福井藩主松平春嶽・宇和島藩主伊達宗城・土佐藩主山内容堂・尾張藩主徳川慶勝には隠居を強制、他にも一橋派に加担した諸侯や幕府官僚の多くが蟄居や謹慎を課され、梅田雲浜・吉田松陰・橋本左内・頼三樹三郎ら14人もの尊攘派志士が刑死または獄死した。薩摩藩主島津斉彬は、率兵上洛して井伊直弼を打倒する決意を固め、準備工作のため西郷隆盛らを先発させたが、出発直前に突然死し計画は頓挫した(佐幕派の実父島津斉興による暗殺説あり)。安政の大獄により雄藩や尊攘派志士は逼塞し井伊直弼の策謀は一時的に成功したが、逆に反幕府の機運が全国へ広がり、井伊の暗殺(桜田門外の変)を皮切りに尊攘運動は勢いを増し時流は一気に倒幕維新へと流れた。怪しい出自ながら井伊直弼に登用された長野主膳は、正統派国学に基づく万世一系の血統主義を持論とし将軍家と血統が近い徳川家茂の将軍就任を正当化する理論を展開した。13代将軍徳川家定が無嗣没し将軍継嗣問題が起ると、長野主膳は紀州藩付家老の水野忠央と連携し幕閣や大奥に盛んに工作、徳川斉昭の誹謗中傷を流布して大奥の斉昭嫌いを煽った。謀反疑惑はデマだが、真偽取混ぜた女性ゴシップは効果的であり、好色漢徳川斉昭の不徳の致す所であった。窮した一橋派は、老中首座堀田正睦の上洛に伴い雄弁家で美男子の橋本左内(福井藩士)を京都に送込み長野主膳に対抗し、徳川慶喜擁立の勅許を得る寸前まで漕ぎ着けた。南紀派は敗北必死の状況に追詰められたが、長野主膳は大奥を動かして精神薄弱者の将軍徳川家定から強引に言質をとり、井伊直弼を非常職の大老に就任させ徳川家茂の将軍就任を断行、スパイを駆使して安政の大獄を指揮した。井伊直弼暗殺後も長野主膳はしぶとく彦根藩政を握ったが、天誅騒動で失脚し縛り首に処された。
大老井伊直弼の登場で将軍継嗣問題に敗れた一橋派の公武合体運動であったが、井伊の死によって再び息を吹き返した。島津斉彬の遺志を継いだ島津久光が率兵江戸に乗込んで幕閣を脅し上げ、幕政改革を強行した。久光は幕府に、雄藩連合による公武合体路線を認めさせ、将軍徳川家茂の上洛を強要し、徳川慶喜を将軍後見職、松平春嶽を政治総裁職にねじ込んだ。幕府の実権は慶喜が握り、ここから幕末へ至る幕府の政策は概ね慶喜の意図による。
島津久光は、質朴・剛健で保守的な性格であり、利発で学問好きだったが専ら国学と漢学を好み洋楽は嫌いだった。こうした性格が守旧派の父島津斉興に気に入られ、開明的な兄島津斉彬との後継争いを招く原因となった。斉彬が没したとき既に42歳と高齢だった島津久光は藩主に就かず、長子の島津忠義を斉彬に入嗣させ藩主とした。藩政を奪回した島津斉興は薩摩藩を保守佐幕路線へ急転回させ斉彬派を弾圧して西郷隆盛・月照の入水事件などを引起したが(久光のせいではない)、斉興の死により実権を握った「国父」の島津久光は兄斉彬の雄藩連合・公武合体運動を踏襲し中央政局へ踏出した。参勤交代・江戸住みの経験が無く中央政局に疎い島津久光の政治的手腕を疑う藩士が多く、西郷隆盛は「ジゴロ(田舎者)に斉彬公の真似は無理でごわす」と面罵したが、久光は敢然と反抗勢力を追払い大久保利通・小松帯刀を要路に就け率兵上洛を挙行した。京都から江戸へ乗込んだ久光は、クーデターで幕府政治改革を強行、一橋派の徳川慶喜と松平春嶽を幕閣の中枢に送込み、参預会議を発足させて見事に公武合体を果した(文久の改革)。
島津久光のクーデターによって幕政を掌握した徳川慶喜であったが、久光との主導権争いが発生し四賢候も慶喜の独断専行に反感を募らせた。こうしたなか1863年に雄藩連合・公武合体運動の結実ともいえる参預会議が開かれたが、横浜鎖港問題を巡って慶喜と久光が対立、慶喜が横浜鎖港を強行しようとしたことで参預会議は瓦解した。この後、慶喜は江戸へ戻らず禁裏御守衛総督として京都に留まり政局を独占(一会桑政権)、禁門の変、長州征討を主導していく。
徳川慶喜は、大政奉還で討幕の対象たる幕府を消滅させ、徳川氏は最大版図を領する大名共和制の盟主として実権を保持する目論みであった(或いは、江戸幕閣の無能を嫌い京都に留まり続けた徳川慶喜は、世襲制と幕藩体制の限界を悟り一代の大統領的地位を望んだのかも知れない)。が、徳川氏打倒による武力革命を決意する薩摩藩の大久保利通・西郷隆盛は、朝廷が幕府の大政奉還を勅許する直前に討幕の密勅を強行、宮廷工作は岩倉具視が担当したが正式の手続きを経ない偽勅であったとされる。これにより大政奉還は有名無実化、大久保利通・西郷隆盛は幕府を挑発して鳥羽伏見の戦いを引起し、晴れて「朝敵」慶喜追討の勅を得て戊辰戦争に引きずり込んだ。大政奉還を無視され辞官納地を迫られた徳川慶喜は、一度はこれを拒否し抵抗の姿勢を示したが、鳥羽伏見の敗報を聞くと松平容保・松平定敬を伴って密かに大阪城を脱出し江戸へ逃げ帰った。幕臣は恭順派と抗戦派の真二つに割れたが、徳川慶喜は絶対恭順に決し上野寛永寺に謹慎、薩長が目の敵にする松平容保・松平定敬や小栗忠順ら抗戦派の幕閣を江戸から追払い恭順派の勝海舟に全権を委ねた。近藤勇・土方歳三ら新撰組の残党も江戸へ来たが、勝海舟は勝ったら大名にしてやるなどと甘言を弄して甲州戦線へ追遣り、「甲陽鎮撫隊」は甲州勝沼の戦いで板垣退助の東山道軍に完敗、投降した近藤勇は斬首され、土方歳三は大鳥圭介の幕府陸軍に合流し会津へ向かった。松平容保は会津若松城に戻って官軍を迎え撃ち、松平定敬は越後柏崎を経て会津戦争・函館戦争と転戦した。西郷隆盛との会談で江戸城無血開城を果した勝海舟は、明治政府で旧幕臣としては異例の出世を遂げ外務大臣・海軍大臣相当職や参議・元老院議官・枢密顧問官を歴任し伯爵にも叙されたが、積極的な政治参加を控えたらしく具体的な業績はほとんど無い。一方、勝海舟は旧幕臣の保護活動には地位をフル活用して熱心に取組み余生を捧げた感がある。徳川宗家と徳川慶喜家への公爵授爵は勝海舟の尽力の賜物であり、旧幕臣には就職斡旋や資金援助に奔走し牧之原台地に茶畑を拓いて入植を推進した。
大酒呑みの山内容堂は「鯨海酔候」と自称し豪傑を気取ったが、アルコール中毒症が疑われ重度の歯槽膿漏も患っていた。そのためか、根気と集中力を欠き、体調不良を理由に重要な会議にも欠席しがちで、気に入らないと物事を投出す場面が多々あった。四候会議の根回しで高知を訪れた西郷隆盛は、山内容堂から上洛の承諾を得るも「酔えば勤皇・覚めれば佐幕」を懸念し、シラフの容堂が「此度は東山の土となるつもりぞ」と決意表明したことを福岡孝悌から聞いてから高知を去り伊達宗城を説くため宇和島へ向かった。大恩ある徳川家の運命を決した小御所会議(最初の三職会議)は山内容堂の一世一代の見せ場であったが、「鯨海酔候」はこの日も泥酔状態で遅参したうえ大声で喚き散らす醜態を演じ「2、3の公卿が幼沖の天子を擁し権威を恣にしようとしている」との失言(事実だが)を岩倉具視に叱責され沈黙、松平春嶽も徳川慶喜の出席要請を断念した。山内容堂は徳川慶喜が目論む「徳川宗家を中心とする列候会議」(徳川家を盟主とする大名共和制)を代弁したが無視され、西郷隆盛の「ただ、ひと匕首あるのみ」(慶喜1人を殺せば片付く簡単なことだ)という気迫が議場を制し、後藤象二郎は大久保利通に丸め込まれ、薩摩藩の思惑通り徳川慶喜の辞官納地が決議された。最初の難関を突破した西郷隆盛と大久保利通は武力討幕へ邁進、幕府を挑発して鳥羽伏見の戦いを引起し「朝敵」徳川慶喜を討つ大義名分を獲得した。
岩倉具視は、大久保利通の盟友として薩摩藩の朝廷工作を担い討幕の密勅・辞官納地を成功させた豪腕公卿、王政復古の大号令で朝廷から世襲制を排除し自ら太政官の最高位に就いたが公家優遇に固執し立憲制・自由民権運動に反対した。1851年から1994年まで流通した五百円札の肖像画にみるように岩倉具視は公家らしからぬイカツイ容貌で、幼少期は「岩吉」長じて「山賊の親分」などと形容されたが、見た目どおり豪傑肌で胆力があり、洛北岩倉村での蟄居時代には糊口を凌ぐため自宅を賭場として博徒に貸与したといわれる。和宮降嫁の首謀者として久坂玄瑞・武市半平太に打倒され5年間も隠遁したが、希少な硬骨公家を大久保利通は見逃さず、孝明天皇没後に薩摩藩の名代として朝廷に乗込んだ岩倉具視は偽勅批判を恐れず討幕の密勅を強行し、小御所会議で徳川慶喜の辞官納地を強行採決した。が、他に見るべき業績は無く、岩倉具視は政治理念よりも朝廷の発揚と自身の出世のために動いたようにみえる。少壮期より世襲公卿に反発した岩倉具視は、関白九条尚忠が推す条約勅許に異を唱え同類の軽輩公家を扇動して「八十八卿列参事件」を起したが、安政の大獄で佐幕へ転じ、井伊直弼暗殺に伴い公武合体派が盛返すと意を受けて和宮降嫁を推進したが、尊攘派の猛攻で失脚した。蟄居中に大久保利通と邂逅した岩倉具視は忽ち武力討幕論に迎合し、大政奉還が成ると王政復古の大号令に摂関と朝臣の世襲制排除を盛込み、三条実美と共に太政官の最上位に就き宿願を果した。なお、本心佐幕派の孝明天皇の崩御は討幕への一大転機で毒殺が噂されたが、真先に疑われたのは岩倉具視だった。新政府の重鎮となってからも岩倉具視は大久保利通を支える役割を果し、「岩倉使節団」から戻り明治六年政変が起ると西郷隆盛ら征韓派の追放に加担したが、秩禄処分で士族特権を奪いながら旧公家のみを優遇する政策が士族反乱に油を注ぎ、自由民権運動には決して妥協しなかった。反動勢力の首魁と化した岩倉具視が没すると、伊藤博文は華族令で旧武士層に幅広く爵位を振舞い、太政官制を廃止して内閣制度を発足させた。
官軍が江戸へ迫ると、彰義隊と称する旧幕臣が輪王寺の宮を担いで上野寛永寺(徳川将軍家の霊所)に立篭もり一戦を辞さない構えをとった。が、徳川慶喜の恭順で大義名分を失うと主戦派の天野八郎(上野国の名主出身)らが撤兵を説く頭取の渋沢成一郎(一橋家家臣で渋沢栄一の従兄、こののち榎本武揚に従い箱館戦争に従軍)らを追出し大義無き賊軍と化した。坊主ながら首謀者の覚王院義観は諫止する勝海舟・山岡鉄舟を逆に挑発し江戸市中だけでなく諸藩に檄文を送って反官軍熱を煽り立て、彰義隊は博徒や無頼漢が大勢を占める暴徒集団と化し江戸中心部を無法地帯に陥れた。官軍主力の薩摩藩は、禁門の変で幕府に与しながら密かに薩長同盟を結び、長州藩が第二次長州征討に勝利すると強硬な討幕路線へ転換、戊辰戦争が始まると西郷隆盛(東海道軍筆頭参謀)は徳川家赦免へ転じ江戸総攻撃を中止した。他藩は薩摩藩の変転と専断に憤り長州藩の大村益次郎や佐賀藩の江藤新平は西郷隆盛が勝海舟に騙されたと糾弾し朝廷へ武力討伐を促した。江戸城無血開城を果した西郷隆盛は不戦に努めたが、江戸府判事として京都から乗込んだ薩摩嫌いの大村益次郎は黙々と兵器や軍用金を調達し戦争準備を終えると軍議で必勝策を開陳、兵員不足を理由に慎重論を説く有村俊斎(西郷の子分で横柄な態度が他藩人から憎まれた)を「君は戦を知らぬ」と侮辱し、西郷を説伏せ武力討伐に決した。かくして上野戦争が始まり、西郷隆盛率いる薩摩勢は主戦場の黒門口を攻撃、搦手口から後背を衝いた長州勢はぐずついたが江藤新平率いる佐賀藩のアームストロング砲が威力を発揮し諸藩の砲撃に晒された彰義隊は潰走し捕えられた天野八郎らは処刑、作戦用兵を一人で取仕切った大村益次郎の武名は天下に轟いた。なお、大村益次郎は翌年京都で兇漢に襲われ死亡したが、大村を憎悪する有村俊斎が扇動したという噂が立った。徳川家の守衛たらんと発足した彰義隊だが、官軍に大戦果を与えただけに終わり、西郷隆盛の奔走で100万石以上もらえるはずだった徳川家達(徳川慶喜の後継者)は封地を駿府70万石に減らされた。
長州藩の木戸孝允は、戊辰戦争の最中に早くも郡県制による中央集権制化を構想し三条実美・岩倉具視に版籍奉還の建白書を提出、このときは時期尚早として見送られたが、戊辰戦争の帰趨が定まり世が落着くと長州藩主毛利敬親に率先して版籍奉還するよう建言し承諾を得た。1869年、木戸孝允は薩摩藩の大久保利通・土佐藩の後藤象二郎と連携し薩長土肥の4藩主連署で朝廷に上表を提出させ、全藩主が追随して領地(版図)と領民(戸籍)を天皇へ返還した(版籍奉還)。この時点では旧藩主がそのまま知藩事に任じられ実質的変動はなかったが、1871年木戸孝允・大久保利通・西郷隆盛は薩長土三藩の兵を徴し御親兵を創設、幕府を倒した朝廷の権威と直轄軍の武力を背景に、藩を廃止して中央集権化し地方統治を中央管下の府県に一元化する廃藩置県を断行した。版籍奉還で知藩事へ横滑りした旧藩主は領国支配権を召上げられ原則東京在住を義務付けられたが、十分な身分と収入を補償され、表立った反対運動は起らなかった(薩摩藩の島津久光のみは鹿児島に引篭り生涯反抗姿勢を続けた)。「維新の三傑」の連携プレイで最初にして最大の難関をクリアした明治政府は、殖産興業と徴兵制導入で富国強兵に邁進、財政を圧迫する士族特権を秩禄処分で剥奪し、1877年西南戦争で西郷隆盛を斃し不平士族反乱を根絶、維新から僅か10年で近代的中央主権国家の礎を築いた。
明治政府は、南進するロシアに対する国防要請の高まりを受け、また天然資源が豊富で農地転用可能な原野が多い北海道を国力増強の切り札と考え、蝦夷ヶ島を北海道へ改称し開墾推進のため開拓使を設置した。蝦夷開拓総督・初代開拓使長官に任じられた佐賀藩主鍋島直正は、島義勇を開拓御用掛に任じ佐賀藩は率先して北海道へ移住者を送込んだが、現地へ赴任することなく2ヵ月後に大納言に転任、開拓使長官を継いだお飾りの東久世通禧(公家)のもと次官の黒田清隆(薩摩)が実務を差配した。札幌市街の基礎を作った島義勇は「北海道開拓の父」と呼ばれ札幌市役所と北海道神宮に銅像が建てられた。政府は苦しい財政事情のなか巨費を投入、札幌農学校(北海道大学の前身)を設置し新たな農業技術の導入やインフラ整備を推進した。当初は北海道を諸藩に分領し開拓を委託する方針であったが応募は佐賀藩など少数に留まり、政府直轄の「屯田兵」方式へ路線変更した。農家1戸あたり約5ヘクタールの提供を約束しパンフレット頒布などで入植を奨励した結果、内地で失職した士族を中心に自費入植者が相次ぎ1870年に6618人だった北海道の人口は急増し1912年には173万9099人となった。開拓使は、黒田清隆の「官有物払下げ事件」で廃止され、機能は1886年に新設された北海道庁へ引継がれた。