「鍋島 直正」の史実


1830年

鍋島斉直の隠居に伴い鍋島直正が10代佐賀藩主に就任、佐賀藩の藩政改革と近代化が始まる

鍋島 直正(1815年~1871年)
鍋島直正は「蘭癖」といわれるほどの開明派であったが、ペリー来航に際して幕府から意見を求められると「夷荻ども傲傲の振る舞い、断固打ち払い」を主張し、長州藩の攘夷決行(下関事件)を高く評価した。。政敵となる「四賢候」と同様に「まずは武威を示し然る後に洋式軍備を導入し外夷を打払うべし」という「大攘夷」を唱えたか、或いは対外交渉窓口は長崎という原則の遵守を強調したのかも知れない。鍋島直正は洋式兵器の自藩製造を志し「精煉方」を開設したが、叔父の鍋島茂義(支藩の武雄藩主)の影響も大きかった。鍋島茂義は、長崎町年寄として下向した高島秋帆に弟子入りして西洋式砲術や科学技術を学び、オランダ人と親密に交流、雄藩に先駆けて武雄藩の軍備と軍制を洋式化した傑物であり、精煉方では自ら蒸気船建造の責任者に任じた。なお、幕府と雄藩は競って洋式兵器製造に取組んだが、先ず必要な設備は鉄製砲身の鋳造に欠かせない反射炉であり、幕府(伊豆韮山)と薩長は反射炉の実用化に成功したが、先駆となって技術開発をリードしたのは鍋島直正の佐賀藩であった。佐賀藩は、幕府や他藩が及ばない水準まで鋳造技術を高め、アームストロング砲に代表される最新式の洋式大砲・鉄砲の自藩製造に唯一成功、また洋式蒸気船の開発にも取組み国産初の実用蒸気船「凌風丸」の建造を成功させた。ただし、幕末時点では佐賀藩でも製造より輸入の方が安上りで、戊辰戦争に投入された銃器・軍艦の主体は輸入品であった。佐賀藩の精煉方で技術革新を牽引したのは「東洋のエジソン」田中久重である。田中久重は久留米出身の細工職人で、上方へ出て機械仕掛けの技術を磨き「からくり儀右衛門」と称され大評判をとった。西洋技術も習得した田中久重は、緒方洪庵の適塾に学んだ佐野常民の勧めで鍋島直正の佐賀藩に出仕し、精煉方の技術開発職に就いて反射炉や凌風丸の建造を主導、日本初の蒸気機関車・蒸気船の模型も製作した。1864年故郷の久留米藩へ転籍し西洋技術導入に貢献、1873年東京に移住し東芝の前身とされる「田中製造所」を創立した。