著名自分史「鍋島直正」

オリジナル

鍋島 直正

なべしま なおまさ

鍋島 直正

1815年~1871年

80

大老井伊直弼の暗殺で中央政局から離脱するも佐賀藩の富国強兵と洋式軍備導入に専念し、戊辰戦争が起ると幕末最強の最新兵器を投入し「薩長土肥」に滑り込んだ開明的専制君主

寸評

基礎点 90点 貿易都市長崎に最も近く長崎警備役も務めた佐賀藩は地の利を占めたとはいえ、鍋島直正の襲封時には藩財政は破綻に瀕しており、短期間で富裕藩に押上げ幕末の西洋技術導入競争に勝利した手腕は凄い。藩政改革には痛みが伴うため門閥外の「仕置家老」に嫌われ役を押付けるのが常套手段で(薩摩藩の調所広郷、長州藩の村田清風、土佐藩の野中兼山・吉田東洋など)多くは保守派の逆襲により非業の最期を遂げたが、佐賀藩では専制君主の鍋島直正が自ら差配を振った。鍋島直正の業績といえば幕末随一の洋式軍備と技術力であり、親友の大老井伊直弼の暗殺で佐賀に引篭り中央政局から脱落したが、戊辰戦争の帰趨を見極めてから悠然と討幕戦に参加しアームストロング砲に象徴される最新鋭兵器を備えた佐賀藩兵が大活躍したことで「薩長土肥」に滑り込んだ。いわば「漁夫の利」だが、鍋島直正は高杉晋作の「割拠論」を藩主の立場で最初から体現しわけで、最高度の実力を涵養し確実に勝ち馬に乗る合理性は現代人には優れたものと感じられる。ただ幕末時点では佐賀藩といえども銃器・軍艦は製造より輸入が断然安上りのレベルであり、明治期の産業革命に直結したとは言い難いが、鍋島直正と佐賀藩の成功は技術重視の風潮形勢に少なからず貢献しただろう。また、鍋島直正は藩校弘道館の拡充など人材育成を重視し、幕末の動乱で藩士を喪わなかった佐賀藩は明治政府に多くの実務官僚を提供、江藤新平・大隈重信・副島種臣・大木喬任は参議に上り詰めた。戊辰戦争で佐賀藩兵を率いた江藤新平は薩摩藩と大久保利通を敵視する余り佐賀の乱を起して自滅、大隈重信は思い上がって薩長藩閥に締出され腰の定まらないハッタリ屋に終始したが、藩士の失策は鍋島直正の過失ではあるまい。
-10点 鍋島直正は、老中安倍正弘や大老井伊直弼に取入って中央政界に乗出したが井伊暗殺後は極端な孤立主義を貫き藩士の尊攘運動を抑制、佐賀藩は幕末随一の軍備を擁しながら薩長に大きく遅れをとり明治維新における貢献は軍備提供以外に無かった。徳川慶喜が江戸へ逃げ戻り官軍の優勢が明らかとなってから戊辰戦争に参戦し「薩長土肥」に食込んが、薩長の功労の前に江藤新平・大隈重信・副島種臣・大木喬任らは無力であり藩閥政治を阻止できなかった。

史実

1815年 9代佐賀藩主鍋島斉直の十七男に鍋島直正が出生

1819年 佐賀藩の江戸藩邸が大火により消失

1825年 異国船打払令

1828年 シーボルト事件

1828年 シーボルト台風、佐賀藩で死者1万人

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1829年 徳川斉脩の急死に伴い弟の徳川斉昭が9代水戸藩主に就任、水戸学に基づき尊皇攘夷運動を牽引

1830年 鍋島斉直の隠居に伴い鍋島直正が10代佐賀藩主に就任、佐賀藩の藩政改革と近代化が始まる

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1830年 佐賀藩主鍋島直正が藩校弘道館の拡充を指示

1837年 水戸藩主徳川斉昭と水戸学派が実権を掌握し藩校弘道館を開設し藩政改革を始動

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1839年 鍋島斉直が死去

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交遊録

鍋島斉直 父・9代佐賀藩主
鍋島直大 嫡子・10代佐賀藩主
鍋島茂義 蘭癖の叔父・武雄藩主
枝吉神陽 佐賀藩尊攘派の首領
江藤新平 佐賀藩尊攘派・佐賀軍指揮官
大隈重信 佐賀藩尊攘派
副島種臣 佐賀藩尊攘派
大木喬任 佐賀藩尊攘派
島義勇 尊攘派家臣・北海道開拓指揮官
佐野常民 適塾生
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