著名自分史「武市半平太」

オリジナル

武市 半平太

たけち はんぺいた

武市 半平太

1829年~1865年

90

剣術道場主から久坂玄瑞に啓発され「土佐勤皇党」を結成、吉田東洋暗殺で藩政を握り長州藩と連携して「破約攘夷」運動を牽引したが下克上を嫌う山内容堂に誅殺され土佐藩は中央政局から脱落

寸評

基礎点 100点 武市半平太は、大業を成す前に主君の山内容堂に殺されたが、僻遠の土佐藩を国事に目覚めさせた点は長州藩の吉田松蔭や薩摩藩の島津斉彬に等しく、土佐勤皇党の絶対的領袖として中央政局に乗出した点は薩摩藩の西郷隆盛と同じ役柄であり、武市無くして同志の坂本龍馬・中岡慎太郎・吉村寅太郎・田中光顕・土方久元・佐々木高行らの活躍は無く、土佐藩が「薩長土肥」の末席を汚し山内容堂陣営の後藤象二郎・板垣退助・福岡孝悌・谷干城らが明治政府で出世することもなかっただろう。文武両道の達人で人格・威望に優れ同志はもちろん他藩士からも尊敬された武市半平太の存在は本人の没後も土佐人を陽のあたる場所へ導いた。
-10点 武市半平太は、「人斬り」と恐れられた岡田以蔵や田中新兵衛らを操って京都で暗殺を繰返し天誅騒ぎを巻起した。土佐藩執政の吉田東洋の暗殺は大老井伊直弼暗殺事件(桜田門外の変)と同様に時代の要請でやむを得なかったといえようが、その他の暗殺はほとんど政治的効果のない無暗な殺人に過ぎなかった。天誅騒ぎで幕府陣営も先鋭化し会津藩や新撰組・見廻組が猛反撃を開始、坂本龍馬を含む多くの尊攘派志士が殺され池田屋事件も誘発した。また武市半平太の過激路線と暴走は山内容堂に粛清を決断させる要因となり、突然梯子を外された武市は投獄され罪状未確定ながら「不敬罪」で無念の切腹、武市と共に「挙藩勤皇」の夢は崩壊した。

史実

1829年 土佐藩の白札格郷士武市正恒の嫡子武市半平太が土佐長岡郡吹井村にて出生

1840年 アヘン戦争(~1842)

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1841年 武市半平太が高知城下に出て一刀流の千頭伝四郎に入門

1842年 異国船打払令を緩和し薪水給付令施行

1849年 武市半平太が父母の急死に伴い富子と結婚

1850年 武市半平太が小野派一刀流の麻田直養に入門、忽ち上達し高知城下に剣名を馳せる

1850年 井伊直亮が死去し弟の井伊直弼が15代彦根藩主に就任、藩政改革に着手し譜代筆頭として幕政に乗出す

1852年 彦根藩主井伊直弼が長野主膳を知行150石で藩士に召抱え藩校弘道館の国学教授に任じる

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1853年 [ペリー来航]マシュー・ペリー艦隊が浦賀に来航、フィルモア米大統領の親書交付

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1853年 武市半平太が西国筋形勢視察の藩命を受けるが待遇上の不満により辞退

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交遊録

山内容堂 最悪の主君
山内豊範 容堂養嗣子の土佐藩主
千頭伝四郎 剣術の先生
麻田直養 剣術の先生
島村寿之助 道場を共同経営した妻の叔父
桃井春蔵 士学館の師匠
坂本龍馬 土佐勤皇党副首領
大石弥太郎 土佐勤皇党員
間崎哲馬 土佐勤皇党員
平井収二郎 土佐勤皇党員
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