著名自分史「毛利敬親」

オリジナル

毛利 敬親

もうり たかちか

毛利 敬親

1819年~1871年

90

改革派の村田清風・周布政之助に長州藩政を託し木戸孝允・高杉晋作・久坂玄瑞ら吉田松陰門下生を後援して長州藩を尊攘・討幕運動へ投入、明治維新後は版籍奉還に率先応じた偉大なる「そうせい候」

寸評

基礎点 100点 毛利敬親は、改革派の村田清風・周布政之助に長州藩政を託し木戸孝允・高杉晋作・久坂玄瑞ら吉田松陰門下生を後援して長州藩を尊攘・討幕運動へ投入、明治維新後は版籍奉還に率先応じた偉大なる「そうせい候」である。大きな危険をおかして長州一藩を尊攘運動に投込み、徳川慶喜の長州征討を返討ちに撃退して幕府の権威を失墜させ、薩摩藩を引込んで遂に討幕を成遂げた。いつも「そうせい」と家臣に丸投げした毛利敬親の政治能力を疑う向きもあるが、激変する対幕関係と藩内闘争のなか持論の尊攘方針を堅持し重要事項は自ら決断、有能な家臣を登用し細事を任せ切った日本人が理想とするリーダーの一典型である。個人的能力では同世代の「四賢候」(島津斉彬・松平春嶽・伊達宗城・山内容堂)に及ぶまいが、長州藩の暴発無くして明治維新は無く長州藩主というだけで毛利敬親の功績は絶大であり、明治政府の最初にして最大の難関であった版籍奉還を率先垂範した先見の明も光る(薩摩藩の島津久光は反抗し続けた)。
-10点 島津久光が決断と統率の姿勢を顕示し薩摩藩が挙藩体制を貫いたのに対し、毛利敬親は我意を通さず優勢な派閥を支持したため長州藩の保革対立は殺し合いへ発展し少なからぬ悲劇を招いた。

史実

1819年 毛利斉元(のち長州藩12代藩主)の嫡子に毛利敬親が出生

1824年 10代長州藩主毛利斉熙が隠居、嫡子(庶子で次男)の毛利斉広が幼少のため従弟の毛利斉元が11代藩主を承継

1825年 異国船打払令

1836年 毛利斉熙と11代長州藩主毛利斉元が相次いで死去、毛利斉広(斉熙の庶子)が12代藩主を承継

1837年 12代長州藩主毛利斉広の急死に伴い毛利敬親(11代藩主毛利斉元の嫡子)が13代藩主を承継

1838年 村田清風が長州藩庁の実権を握り藩政改革を断行

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1840年 10歳の吉田松陰が藩主毛利敬親の御前で『武教全書』を講義し大評判を得る

1840年 アヘン戦争(~1842)

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1842年 異国船打払令を緩和し薪水給付令施行

1846年 村田清風を慕う周布政之助が開明派藩士を集め嚶鳴社を結成

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交遊録

毛利斉熙 10代長州藩主
毛利斉元 父・11代長州藩主
毛利斉広 12代長州藩主
毛利定広(元徳) 嫡子
毛利元昭 定広嫡子
西園寺八郎 定広八男
西園寺公望 八郎舅
村田清風 超優秀な側近
周布政之助 村田後継者の正義派首領
浦靱負 正義派家老
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