著名自分史「周布政之助」

オリジナル

周布 政之助

すふ まさのすけ

周布 政之助

1823年~1864年

70

藩主毛利敬親の新任を得て保守佐幕派を抑えつつ、木戸孝允・高杉晋作・久坂玄瑞ら吉田松蔭門下生を支援した長州正義派の執政

寸評

基礎点 80点 周布政之助は、村田清風から正義派を受継いだ尊攘思想家で、家柄家老ではないが長州藩主毛利敬親の新任を得て「破約攘夷」運動を主導、木戸孝允・高杉晋作・久坂玄瑞ら吉田松蔭門下生を藩政に登用し活躍を支えた功績は大きい。久坂・木戸の後見人として自ら前面に出て志士活動に奔走、長州藩の重臣である周布政之助の参加は他藩の志士に安心感を与え他藩主や重臣に「下級藩士や浪士が騒ぎたてているだけではない」と説得するうえで重要な役割を果した。ただし、周布政之助の主眼は尊攘運動というよりは椋梨藤太ら俗論党との藩内政争にあったと考えられ、過激な尊攘運動には一貫して反対の立場をとり抑止に努めた。老中間部詮勝要撃を企てた吉田松蔭を野山獄へ再投獄し、長井雅楽襲撃を主張する高杉晋作や久坂玄瑞を制止し、禁門事変後の世子毛利定広の上洛・出兵には木戸孝允・高杉晋作と共に断固として反対したが、自ら点けた火を消すことはできなかった。
-10点 周布政之助は、酒乱癖があり度々舌禍事件を起したが、心が弱かったようである。禁門の変で長州藩が朝敵となり幕府が長州征討を発動すると心折れて自決、出兵に猛反対した周布は無罪で実際に幕府からの追及もなかったので動機は判然としない。功山寺決起で挽回を図った高杉晋作や、禁門事変の直前に行方を晦ました木戸孝允のような図太さが欲しかった。

史実

1823年 長州藩の中級藩士周布吉左衛門の五男周布政之助が出生、父兄の相次ぐ死により家督相続するが末期養子のため家禄を219石から68石に減らされる、藩校明倫館に就学

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1824年 10代長州藩主毛利斉熙が隠居、嫡子(庶子で次男)の毛利斉広が幼少のため従弟の毛利斉元が11代藩主を承継

1825年 異国船打払令

1836年 毛利斉熙と11代長州藩主毛利斉元が相次いで死去、毛利斉広(斉熙の庶子)が12代藩主を承継

1837年 12代長州藩主毛利斉広の急死に伴い毛利敬親(11代藩主毛利斉元の嫡子)が13代藩主を承継

1838年 村田清風が長州藩庁の実権を握り藩政改革を断行

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1840年 アヘン戦争(~1842)

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1842年 異国船打払令を緩和し薪水給付令施行

1846年 村田清風を慕う周布政之助が開明派藩士を集め嚶鳴社を結成

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1847年 革新派の村田清風と保守派の坪井九右衛門の連立政権、村田派の周布政之助は蔵元検使暫役・椋梨藤太の添役に任じられる

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交遊録

毛利敬親 主君にして良き理解者
毛利定広 敬親養嗣子の長州藩世子
村田清風 親分
能美隆庵 嚶鳴社同志
来原良蔵 嚶鳴社同志
松島剛三 嚶鳴社同志
浦靱負 正義派家老
益田弾正 正義派家老
長井雅楽 正義派だが政敵
坪井九右衛門 村田の宿敵
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