著名自分史「鮎川義介」

オリジナル

鮎川 義介

あゆかわ よしすけ

鮎川 義介

1880年~1967年

70

井上馨の姉の孫で長州閥政商の雄、買収と経営再建で日産コンツェルンを築き満州の重工業開発を牽引したが早期撤退の大英断で財閥崩壊を免れた日産・日立グループ創業者

寸評

基礎点 70点 鮎川義介は大叔父の井上馨と陸軍長州閥の支援のもと日産・日立グループを創始した「企業再生ファンド」の先駆者である。鮎川義介は山口で井上馨に扶育され東大工学部へ進んだが、三井財閥への勧誘を断り、出自と学歴を隠して芝浦製作所(東芝)の一職工となった。が、「日本で成功している企業はすべて西洋の模倣である。ならば日本で学んでいても仕方がない」と悟った鮎川義介は単身渡米し見習工として鋳物技術を学び、帰国すると井上馨の援助で北九州市に戸畑鋳物を設立し可鍛鋳鉄工場を開業、当初は資金繰りにも苦労したが、第一次大戦や関東大震災の特需で軌道に乗り技術分野拡大と工場買収で業容を拡大させた。戸畑鋳物で経営手腕を現した鮎川義介は、田中義一ら陸軍長州閥に懇請され破綻に瀕した妹婿久原房之助の事業(久原財閥)を引受けると忽ち経営再建に成功、持株会社の日本産業(日産)に日産自動車・日立製作所・日本鉱業・日産化学・日本油脂・日本冷蔵・日本炭鉱・日産火災・日産生命などを連ね「日産コンツェルン」を形成した。銀行融資がままならないなか鮎川義介は日産の株式上場で一般大衆から資金を集め(公衆持株)、積極投資が事業拡大・株価上昇と更なる資金を呼込む好循環を確立、日産は経営不振企業の買収と再建を繰返し軍需・重化学工業主導で雪ダルマ式に膨張した。日中戦争が始まると、鮎川義介は石原莞爾ら陸軍首脳の要請に応じ日産の重工業部門を満州へ全面移転、受皿の満州重工業開発(満業)の総裁に就任し「弐キ参スケ」に数えられたが、石原失脚で日中戦争は泥沼へ嵌り日本は無謀な対米戦争へ突入、ドイツの敗北を予見した鮎川義介は1942年間一髪のタイミングで満州撤退を断行した。東條英機内閣の顧問も務めた鮎川義介はA級戦犯容疑で投獄され経営復帰は叶わなかったが、資本と経営基盤を国内に温存した日産は第二次大戦後も生残り、日産自動車・日立製作所・日本鉱業(JXホールディングス)の各企業グループは高度経済成長で躍進し、日本水産・ニチレイ・損害保険ジャパン・日本興亜損害保険・日油などを連ね日産・日立グループを形成した。

史実

1880年 元長州藩の中級藩士鮎川弥八・ナカ(井上馨の姉の子)の嫡子鮎川義介が山口市にて出生

1882年 渋沢栄一主導で大阪紡績(現東洋紡)株式会社設立、紡績業の発展を牽引

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1883年 原敬が中井貞子と結婚、井上馨の縁戚となる

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1883年 鹿鳴館完成~外務卿井上馨の条約改正交渉

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1885年 第一次伊藤博文内閣発足、井上馨が外務大臣就任(大隈重信に途中交代)

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1886年 岩崎弥之助が三菱社設立

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1886年 井上馨が内閣臨時建築局を設置し官庁集中計画始動(井上失脚により頓挫)

1886年 藤岡市助・大倉喜八郎らが東京電燈(現東京電力)設立、全国各地で電力普及が進む

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1886年 企業勃興~起業ブームが始まる

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1887年 鹿鳴館外交と条約改正に失敗した井上馨が外務大臣を辞任、伊藤博文首相が兼務ののち大隈重信へ交代

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交遊録

井上馨 大恩人の大叔父
原敬 井上の義娘婿
伊藤博文 井上の盟友
山縣有朋 長州軍閥のドン
桂太郎 長州軍閥仲間
寺内正毅 長州軍閥仲間
田中義一 長州軍閥仲間
後藤新平 長州系政治家
大倉喜八郎 長州系武器商人
石原莞爾 満州仲間
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