著名自分史「大倉喜八郎」

オリジナル

大倉 喜八郎

おおくら きはちろう

大倉 喜八郎

1837年~1928年

70

維新期に武器商人として台頭、陸軍長州閥に食込み国内外の戦乱に乗じて巨富を積み、井上馨・渋沢栄一・安田善次郎の庇護のもと大倉財閥を築いた大胆不敵な「冒険商人」

寸評

基礎点 70点 大倉喜八郎は、維新の動乱期に武器の輸入販売で台頭し、陸軍長州閥に食込み大倉財閥を築いた立志伝中の企業家である。越後新発田から17歳で単身江戸へ上った大倉喜八郎は、幕末の戦乱に乗じ大倉銃砲店を開業、鳥羽伏見戦が起ると官軍に取入って御用達となり、上野彰義隊に殺されかかるも啖呵でかわし、奥州征討軍の輜重を担い大儲けした。戊辰戦争後、大倉喜八郎は貿易視察のため欧米を巡遊し岩倉使節団の大久保利通や伊藤博文と交流、帰国すると大倉組商会を設立し、日本商社の海外支店第一号となるロンドン支店を開設、インド・朝鮮貿易にも進出した。山縣有朋・桂太郎・田中義一ら陸軍長州閥に大胆不敵さを買われた大倉喜八郎は、台湾出兵・西南戦争・日清戦争・日露戦争で軍隊輜重を任され武器販売や兵站輸送で巨富を積んだ。「冒険商人」大倉喜八郎は自ら命懸けの戦時輸送に乗込み、多くの部下を喪い大嵐で遭難もしたが度重なる死線を潜り抜けた。戦乱の度に焼け太る大倉喜八郎は世間から「死の商人」「政商」「グロテスクな鯰」と呼ばれたが、井上馨・渋沢栄一・安田善次郎ら財界首脳の支援も得て、明治末期には軍需関連・土木建築・鉱工業の三本柱で「大倉財閥」を形成、自ら50以上の会社設立に関与し傘下企業は200社へ膨張した。が、大倉商業学校(現東京経済大学)の創設など経済人養成に尽力した大倉喜八郎の意に反し、大倉財閥に人材は育たず、嫡子の大倉喜七郎は道楽者となった。日露戦争後、大倉喜八郎は陸軍長州閥に歩調を合わせ中国大陸進出を加速、喜八郎没後も大倉財閥は多種多様な大陸事業に巨費を投じたが、成功したのは本渓湖煤鉄公司のみだった。満州の重工業開発を牽引した鮎川義介は逸早く全面撤退し日産・日立を残したが、逃げ遅れた大倉財閥は注込んだ資産を全て中国に接収され、2代目体制は財閥解体の嵐に翻弄され大倉財閥は壊滅した。銀行を核に四大財閥の再編が進むなか、銀行部門の無い大倉財閥では大成建設・帝国ホテル・ホテルオークラ・日清オイリオグループ・帝国繊維・日油・サッポロビールなどの紐帯は復活せず、辛うじて存続した中核の大倉商事も1998年に倒産し大倉財閥は完全に消滅した。

史実

1837年 越後新発田の名主大倉千代助の三男に大倉喜八郎が出生

1853年 ペリー来航

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1854年 17歳の大倉喜八郎が江戸に出て中川鰹節店の奉公人となる

1857年 大倉喜八郎が乾物店大倉屋を開業

1858年 安田善次郎が江戸に出て日本橋の玩具問屋の奉公人となる、大倉喜八郎と知合う

1860年 安田善次郎が日本橋の銭両替商兼鰹節商・広田屋林之助商店に奉公に入る

1863年 八月十八日の政変~薩摩藩・会津藩が長州藩を追放し久坂玄瑞・木戸孝允・武市半平太らの破約攘夷運動が瓦解

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1864年 安田善次郎が日本橋人形町に両替商兼乾物商・安田屋を開店

1864年 禁門の変、禁裏御守衛総督徳川慶喜・京都守護職松平容保の指揮のもと薩会連合軍が長州軍を撃退し一会桑政権樹立

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1864年 徳川慶喜が長州追討の勅命を得て第一次長州征討を決行

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交遊録

大久保利通 最初の恩人
伊藤博文 恩人
井上馨 大恩人
山縣有朋 陸軍のお得意様
桂太郎 陸軍のお得意様
寺内正毅 陸軍のお得意様
田中義一 陸軍のお得意様
鮎川義介 長州系財界仲間
久原房之助 長州系財界仲間
小平浪平 鮎川・久原の部下
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