著名自分史「岩崎弥之助」

オリジナル

岩崎 弥之助

いわさき やのすけ

岩崎 弥之助

1851年~1908年

80

薩長藩閥と講和し兄の岩崎弥太郎が興した海運業から撤退したが膨大な遺産を元手に鉱山業・造船業の買収攻勢で忽ち復活、経営多角化を成功させ全方位外交で政界と宥和した実質上の三菱財閥創業者

寸評

基礎点 80点 岩崎弥之助は、今日に続く三菱財閥の実質上の創業者である。岩崎弥太郎の急死で2代目を継いだ岩崎弥之助は本業の海運業を断念し「三菱商会」を薩長藩閥の日本郵船へ引渡したが、新たに「三菱社」を興し鉱山・造船・不動産・銀行など多角化戦略に打って出た。先ず鉱業に乗出した岩崎弥之助は、買収攻勢で次々と所有鉱山を増やしつつ、最新の採掘・精錬法を採用し多額の資本を投下して近代設備を導入、三菱の金銀銅産出量は全国屈指の規模に急成長を遂げた。岩崎弥之助は炭鉱部門にも力を注ぎ、兄が後藤象二郎から押付けられた高島炭鉱を最新技術で優良化させると相次いで炭鉱を買収、三菱の炭鉱生産は国内産出量の1割に膨らんだ。さらに岩崎弥之助は、政府から押付けられたお荷物の長崎造船所を買上げ、本場イギリスから先端技術を導入し日本初6千トン級巨船の建造に成功、神戸造船所も開設し三菱造船は日清戦争・日露戦争・第一次大戦に伴う空前の造船ブームを満喫し稼ぎまくった。岩崎弥之助は主力の鉱業・造船に留まることなく経営多角化を推進、倉庫・保険、銀行・農場(小岩井農場)など多種多様な事業に手を広げた。とりわけ日本初のオフィス街建設は特筆すべきで、岩崎弥之助の先見の明により現在も三菱地所は「丸の内の大地主」である。一方、岩崎弥之助は政界活動でも強かさとバランス感覚を発揮した。大隈重信への肩入れが過ぎて薩長藩閥に潰された岩崎弥太郎を反面教師に、岩崎弥之助は全方位外交を展開、大隈の進歩党を援助しつつ岳父の後藤象二郎と自由党を後援し、さらに松方正義の次男松方正作に娘の繁子を嫁がせ薩摩閥に食込んだ。また、エリート外務官僚の加藤高明・幣原喜重郎を青田買いし岩崎弥太郎の娘を嫁がせるなど、長期戦略で政界に三菱勢力を扶植した。日本郵政も参加に収め三菱再興を果した岩崎弥之助は、潔く亡兄の嫡子岩崎久弥に3代目を禅譲し、引退後は政治活動に本腰を入れた。大隈重信(政党)と松方正義(藩閥)の間を取持ち第二次松方内閣を成立せしめた岩崎弥之助は、第4代日銀総裁を引受け金本位制移行や制度改革を断行し「名総裁」と讃えられる業績を残した。

史実

1851年 土佐安芸郡井ノ口村の地下浪人岩崎弥次郎の三男に岩崎弥之助が出生(長兄の岩崎弥太郎より16歳年少)

1853年 ペリー来航

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1853年 土佐藩主山内容堂が吉田東洋を参政に抜擢し藩政改革を推進

1854年 吉田東洋が松下嘉兵衛打擲事件を起し長浜に蟄居処分、密かに少林塾を開き後藤象二郎・板垣退助・福岡孝悌・岩崎弥太郎を教育

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1855年 武市半平太が槍術家で義叔父の島村寿之助と共同経営の道場を開業、中岡慎太郎・岡田以蔵・田中光顕ら多くの門人が参集

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1855年 岩崎弥太郎が江戸へ遊学し安積艮斎の私塾に入門

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1855年 岩崎弥次郎リンチ事件により岩崎弥太郎が江戸から帰国、安芸郡奉行所を挑発し投獄される

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1857年 喧嘩両成敗で岩崎弥太郎が出獄、蟄居中に私塾を開き近藤長次郎・池内蔵太らを教育

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1857年 岩崎弥太郎が吉田東洋の少林塾に入門、土佐藩出仕の手掛りを掴む

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1858年 吉田東洋が土佐藩主山内容堂に蟄居を解かれ江戸出府、参政に復帰し配下の後藤象二郎・板垣退助・福岡孝悌・岩崎弥太郎らを登用(新おこぜ組)

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交遊録

岩崎弥太郎 兄・三菱創始者
岩崎久弥 弥太郎嫡子・三菱3代目
岩崎小弥太 弥之助嫡子・三菱4代目
岩崎俊弥 弥之助次男・旭硝子創業者
後藤象二郎 不肖の岳父
加藤高明 弥太郎娘婿
幣原喜重郎 弥太郎娘婿
木内重四郎 弥太郎娘婿
渋沢敬三 木内娘婿
渋沢栄一 敬三祖父
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