著名自分史「陸奥宗光」

オリジナル

陸奥 宗光

むつ むねみつ

陸奥 宗光

1844年~1897年

100

紀州藩重臣の子ながら坂本龍馬に随従、薩長藩閥政府に反抗し「立志社の獄」で投獄されるが、伊藤博文の引きで復活し第二次伊藤内閣の外相として不平等条約改正と日清戦争を牽引した波乱万丈の風雲児

寸評

基礎点 80点 陸奥宗広は紀州藩の権臣だったが派閥争いに敗れ一家は零落、子の陸奥宗光は14歳で江戸の尊攘運動に身を投じ坂本龍馬と邂逅、勝海舟の神戸海軍塾に寄寓して幕府神戸海軍操練所に学び、亀山社中・土佐海援隊と坂本の最期まで付随った。才気煥発だが傍若無人な陸奥宗光は同僚に憎まれたが、坂本龍馬は「天成の利器」を見抜き擁護し続けた。坂本龍馬が暗殺され「天満屋事件」を起した直後に鳥羽伏見戦が勃発、陸奥宗光は大阪に急行してパークス英公使と会見し、それを踏まえて「新政府は先ず列国に王政復古の事実と開国方針を通知すべし」との意見書を岩倉具視に提出した。岩倉具視は意見書を採用し陸奥宗光を外国事務局御用掛に抜擢、陸奥は同僚の伊藤博文と意気投合し生涯に渡る盟友となった。若くして明治政府に足場を築いた陸奥宗光だが、強烈な自尊心のために薩長専制に不満を抱き、伊藤博文と共に廃藩置県の即時決行を主張するも容れられず、官職を辞して和歌山に帰った。が、明治政府のお墨付により紀州藩政を掌握した陸奥宗光は藩政改革と軍備増強を断行、瞬く間に精兵2万を擁する「陸奥王国」を現出させ政府を震撼させたが、廃藩置県で王国は召上げられた。陸奥宗光の紀州割拠の野望は費えたが、このとき部下にした津田出・浜口梧陵・鳥尾小弥太・林薫・星亨らは後に政府顕官となり陸奥を支えた。陸奥宗光は明治政府に帰参したが薩長への不満は止まず明治六年政変を機に再び下野、西南戦争に呼応した土佐立志社の策動に連座し禁固5年の実刑に処された。獄中で西洋政体の研究に励み出獄した陸奥宗光は、原敬・加藤高明・星亨ら非薩長閥の人士を庇護しつつ、伊藤博文に属して薩長藩閥政府で台頭、英独遊学・駐米公使を経て、自由党土佐派とのパイプ役を期待され第一次山縣有朋内閣に農商務相で初入閣、第二次伊藤博文内閣で外相に抜擢されると華々しい「陸奥外交」を展開し、井上馨・大隈重信・青木周蔵が果たせなかった不平等条約改正を成遂げ、日英同盟を結び陸軍の川上操六と共に日清戦争開戦を主導し完勝、露仏独の三国干渉に遭うと冷静に受諾の決断を下し朝鮮・台湾・賠償金などの権益確保に成功した。
20点 陸奥宗光は、激動の維新期にも稀有な波乱万丈の風雲児で「事実は小説より奇なり」を地でいく見事な生き様をみせた。徳川御三家紀州藩の重臣の家に生れたが、派閥争いで失脚した父が流罪となり、家禄没収で一家は離散し流浪の身に転落した。復讐を誓う陸奥宗光は14歳で単身上京し一介の浪士として志士群に身を投じ、坂本龍馬の子分となり神戸海軍操練所・亀山社中・土佐海援隊と行動を共にしたが、維新前夜に坂本が暗殺され海援隊は瓦解した。京都に居た陸奥宗光らは、坂本龍馬暗殺犯と誤解した紀州藩の三浦休太郎を襲撃し斉藤一ら護衛の新撰組隊士と刃を交わしている(天満屋事件)。後ろ盾を失った陸奥宗光だが、己の才覚と坂本人脈を頼りに岩倉具視ら明治政府中枢に食込み伊藤博文らと並ぶ新進気鋭の若手官僚となったが、強烈な自尊心が災いして薩長専制に不満を募らせ、あっさり退官して和歌山へ帰った。が、バイタリティ溢れる陸奥宗光は只では転ばず、政府のお墨付きを得て紀州藩の藩政改革・軍備増強を断行、全国に先駆けた徴兵制も導入して精兵2万人を擁する「陸奥王国」を現出させ政府にプレッシャーをかけた。「維新の三傑」が結束し廃藩置県を決定したため陸奥宗光の割拠の野望は費えたが、政府復帰後も薩長藩閥への反抗心は止まず、立志社の政府転覆工作に加担して禁固5年の判決を受け投獄された。4年で獄中生活を終えた陸奥宗光は、薩長閥打倒の思いを胸に秘め伊藤博文の庇護下に入り、2年間の欧州遊学で立憲政体を研究し帰国後に外務省出仕、自由党土佐派とのパイプ役を期待され第一次山縣有朋内閣に農商務相で初入閣し帝国議会運営に貢献、原敬・加藤高明ら藩閥外の若手の育成にも努めた。そして第二次内閣を組閣した伊藤博文は切札の「カミソリ陸奥」を外相に登用した。陸奥宗光外相は幕末以来の悲願であった不平等条約改正を成遂げ、無防備の朝鮮をロシアの侵略から守るべく日英同盟を結んで日清戦争開戦を主導し、戦勝に浮かれる世論を抑え三国干渉受諾の決断を下したが(陸奥外交)、日本の舵取りを期待されつつ53歳で永眠した。

史実

1844年 紀州藩重臣伊達宗広の六男陸奥宗光が和歌山城下にて出生

1852年 舜恭公の死去に伴い伊達宗広が家禄没収のうえ流罪、残された陸奥宗光一家は流浪生活に陥る

1853年 ペリー来航

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1858年 14歳の陸奥宗光が儒学者を志し上京、諸藩の志士と交流し尊攘運動に身を投じる

1861年 伊達宗広が赦免され紀州藩に再出仕するが、脱藩上洛し尊攘運動に身を投じる

1862年 勝海舟が軍艦奉行並に任じられる(1000石)

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1862年 平野国臣の扇動により土佐藩の吉村寅太郎・坂本龍馬らが脱藩

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1862年 坂本龍馬が松平春嶽の紹介で勝海舟に面会を許され門人となる

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1863年 坂本龍馬が勝海舟の根回しで土佐藩より脱藩罪を赦され神戸海軍操練所の設立準備に奔走

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1863年 幕府が神戸海軍操練所の設立を許可、勝海舟は土佐浪士の受皿として坂本龍馬を塾頭に神戸海軍塾を設立、紀州浪士の陸奥宗光も加わる

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交遊録

坂本龍馬 「世界の海援隊」にお供したかった
勝海舟 坂本の師匠
菅野覚兵衛 志士仲間
望月亀弥太 志士仲間
近藤長次郎 志士仲間
沢村惣之丞 志士仲間
坂本直 志士仲間
長岡謙吉 志士仲間
中島信行 志士仲間にして妹婿
中岡慎太郎 土佐の仲間
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