著名自分史「板垣退助」

オリジナル

板垣 退助

いたがき たいすけ

板垣 退助

1837年~1919年

100

中岡慎太郎の遺志「薩土密約」を受継ぎ戊辰戦争への独断参戦で土佐藩を「薩長土肥」へ食込ませ、自由党を創始して薩長藩閥に対抗し自由民権運動のカリスマとなった清貧の国士

寸評

基礎点 80点 「自由民権運動」の元祖は何といっても板垣退助である。西郷隆盛との「薩土密約」を果たすべく土佐藩兵を戊辰戦争に投入した板垣退助は、中山道軍を指揮し会津戦争を鎮定したが、苛斂誅求に喘ぐ会津民衆が早々に藩を見捨て官軍に協力するのを見て「四民平等でなければ国は守れない」と痛感し、早くも1874年に『民撰議院設立建白書』を提出した筋金入りの活動家であった。明治六年政変で板垣退助は私淑する西郷隆盛に殉じたが、不平士族反乱を起した西郷隆盛・前原一誠・江藤新平ら他の征韓派参議とは一線を画し、「土佐派」を中核に自由党を結成し武力行使によらない自由民権運動を推進した。板垣退助は民意を喚起して薩長藩閥政府に対抗し、遂に伊藤博文を動かして大日本帝国憲法制定・衆議院議員総選挙・帝国議会開設へ導き、改進党の大隈重信と合同し初の政党内閣「隈板内閣」を成立させた。山縣有朋らの「超然主義」政権が集会条例改定など弾圧姿勢を強めると、志士あがりが多い自由党急進派は過激化し「秩父事件」など暴動事件を扇動、党首の板垣退助は手を焼き自由党内の主導権争いに振回されたが、「板垣死すとも自由は死せず」の言葉どおり民権派カリスマの重責をよく果した。板垣退助の自由党系政党は伊藤博文が創設した政友会の基盤となって五・一五事件まで政権政党として重きを為し、戦後自民党の源流となった。
10点 坂本龍馬の手引きで土佐藩執政の後藤象二郎が演じた大政奉還劇は薩長に無視され「討幕の密勅」で戊辰戦争が勃発、徳川慶喜の擁護に固執する山内容堂は出兵を躊躇ったが、中岡慎太郎の斡旋で西郷隆盛と「薩土密約」を結んだ板垣退助は「土佐勤皇党」の流れを汲む「迅衝隊」を率い独断で官軍に参陣、東山道先鋒総督府参謀として会津城攻略等で華々しい武勲を挙げ、土壇場の板垣の活躍で土佐藩は「薩長土肥」の一角に滑り込んだ。戊辰戦争で抜群の軍才を現した板垣退助は、薩摩の西郷隆盛からも長州の大村益次郎からも高く評価された。明治維新後、薩長が軍首脳を牛耳り文官へ弾き出されたが、板垣退助の軍事的才能は突出していたといわれる。
10点 板垣退助は金銭に潔癖で清貧を貫いたことで知られ、晩年は生活費にも困窮し恩賜の刀剣を売却するほどであった。また板垣退助は自由民権思想に基づき華族制度や世襲制の旧弊に反対し、三度目の勅を断り切れず伯爵は受爵したが、貴族院議員の勅撰を断り、華族に被選挙権を認めない衆議院議員にも出馬しなかった。このため、意外なことに板垣退助は自由党総理ながら死ぬまで帝国議会に議席を持たなかった。嫡子の板垣鉾太郎は自ら廃嫡して襲爵せず孫の板垣守正が爵位を返上、子孫も爽やかに板垣退助の「一代華族論」を全うしている。明治維新後「俄か志士」が栄耀栄華を極め汚職が蔓延するなか、こうした板垣退助の生き様は「一服の清涼剤」であり、高潔な人柄は国士と呼ぶに相応しい。ポストに固執しない板垣退助は首相にはなれなかったが、親友の後藤象二郎やライバルの大隈重信のように薩長藩閥に懐柔されることはなく、転向も政治的失策も犯さずに済んだ。

史実

1837年 土佐藩上士(馬廻格300石)乾正成の嫡子板垣退助が高知城下中島町にて出生

1853年 ペリー来航

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1854年 吉田東洋が松下嘉兵衛打擲事件を起し長浜に蟄居処分、密かに少林塾を開き後藤象二郎・板垣退助・福岡孝悌・岩崎弥太郎を教育

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1856年 板垣退助が高知城下四ヶ村禁足に処され神田村に蟄居

1858年 吉田東洋が土佐藩主山内容堂に蟄居を解かれ江戸出府、参政に復帰し配下の後藤象二郎・板垣退助・福岡孝悌・岩崎弥太郎らを登用(新おこぜ組)

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1858年 井伊直弼が大老に就任、一橋派の粛清が始まる(安政の大獄)

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1858年 幕府が日米修好通商条約に無勅許調印、英仏蘭露とも同様(安政五カ国条約)

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1859年 安政の大獄により一橋派諸侯処分、山内容堂は隠居し豊範が16代藩主となる

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1861年 武市半平太が土佐勤皇党を結成

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1861年 板垣退助が江戸留守居役兼軍備御用就任、志士と交わり尊攘思想に傾倒

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交遊録

山内容堂 主君
山内豊範 殿様
吉田東洋 大師匠
後藤象二郎 不肖の親友
福岡孝悌 新おこぜ組の同志
小笠原唯八 新おこぜ組の同志
岩崎弥太郎 後藤の子分
岩崎弥之助 三菱2代目
武市半平太 師匠の仇
那須信吾 師匠暗殺の刺客
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