著名自分史「伏見宮博恭王」

オリジナル

伏見宮 博恭王

ふしみのみや ひろやすおう

伏見宮 博恭王

1875年~1946年

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山本権兵衛の申送りで軍令部総長となり満州事変から終戦まで海軍に君臨、軍拡反米英の「艦隊派」首領として海軍を日独伊三国同盟・対米開戦へ導き特攻作戦も発動した皇族元帥

寸評

基礎点 0点 皇族軍人の伏見宮博恭王は、1932年の満州事変直後から1941年の対米開戦に至る最重要期に10年も軍令部総長の座を占めた海軍暴走のキーパーソンである。伏見宮愛親王の庶子ながら華頂宮を相続した伏見宮博恭王は、皇族男子の慣例に従い軍部へ進み、ドイツ海軍大学校留学を経て海軍将校となった。宮様として名誉職を歴任した伏見宮博恭王は飾雛で終わるべきだったが、ロンドン海軍軍縮条約を巡り統帥権干犯問題が起ると軍拡反米英の「艦隊派」に加担、「海軍の父」山本権兵衛の「失礼のないように」との申送りで一躍実力を伴う軍令部総長に擁され、東郷平八郎の死に伴い唯一の海軍元帥となった。統帥権干犯問題は喧嘩両成敗で決着し艦隊派首領の加藤寛治・末次信正が失脚したが、加藤から軍令部総長を継いだ伏見宮博恭王は天皇の名代として軍令部の権限強化を図り海軍人事を掌握、米英との軍事衝突回避を最優先する「条約派」を一掃し海軍のバランス機能を破壊した。伏見宮博恭王元帥のもと海軍主流となった岡敬純・石川信吾・大角岑生・南雲忠一ら艦隊派は、広田弘毅内閣で海軍軍縮条約廃棄を果し「大和」「武蔵」の巨大戦艦建造に邁進(大鑑巨砲主義)、米英に対抗すべく陸軍・松岡洋右が進めるナチス・ドイツとの同盟を支持した。アメリカを正面敵に回す愚を知る米内光政・山本五十六・井上成美の「良識派」トリオは劣勢ながら抵抗を続け、連合艦隊司令長官の山本は海軍首脳会議で最後の抵抗を試みたが、伏見宮博恭王元帥の「ここまできたら仕方がないね」の一声で勝負あり海軍は日独伊三国同盟承認に決した。伏見宮博恭王は昭和天皇から海軍出師準備令を引出し、海軍中央は石川信吾ら「海軍国防政策委員会」の独壇場となり近衛文麿内閣に南部仏印進駐を迫り対米開戦へ導いた。開戦責任回避のため伏見宮博恭王は軍令部総長を退いたが最後まで影響力を保持し、終戦翌年に薨去した。サイパン陥落後の元帥会議で伏見宮博恭王は「何か特殊兵器(特攻の意)を使え」と指示、禁断の特攻作戦が現実プランに浮上し海軍軍令部はレイテ沖海戦に「神風特別攻撃隊」を投入、万余の若者が狂気の特攻隊に駆出されることとなった。

史実

1875年 伏見宮貞愛親王の庶長子に伏見宮博恭王が出生

1883年 愛賢王(伏見宮博恭王)が無嗣の華頂宮を相続(華頂宮博恭王)

1886年 伏見宮博恭王(華頂宮博恭王)が海軍兵学校予科入学

1889年 大日本帝国憲法発布

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1889年 伏見宮博恭王(華頂宮博恭王)が海軍兵学校を中退しドイツ遊学

1891年 山本権兵衛が西郷従道海相のもと海軍省大臣官房主事に就き海軍の分離独立改革を断行

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1892年 伏見宮博恭王(華頂宮博恭王)がドイツ海軍兵学校入学

1893年 海軍軍令部設置

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1894年 日清戦争勃発

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1895年 下関条約で日清戦争終結、朝鮮(李朝)が初めて中国から独立しソウルに独立門建立

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交遊録

山本権兵衛 海軍のドン
東郷平八郎 艦隊派同志
加藤寛治 艦隊派同志
末次信正 艦隊派同志
岡敬純 艦隊派同志
石川信吾 艦隊派同志
大角岑生 艦隊派同志
南雲忠一 艦隊派同志
高田利種 艦隊派同志
富岡定俊 艦隊派同志
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