著名自分史「山本五十六」

オリジナル

山本 五十六

やまもと いそろく

山本 五十六

1884年~1943年

40

米内光政・井上成美と海軍「良識派」を組み日独伊三国同盟・対米開戦に反対したが、開戦が決まると乾坤一擲の真珠湾攻撃に快勝し持論の航空主兵論の正しさを証明、ミッドウェー海戦で躓き茫然自失のまま撃墜死した海軍善玉論の象徴

寸評

基礎点 80点 山本五十六は連合艦隊司令長官として真珠湾攻撃を成功させるも帝国海軍の終焉と共に撃墜死した悲劇の海将である。山本五十六は海軍兵学校・海軍大学校を卒業し、足掛け4年に及ぶアメリカ駐在で知米派海軍人となった。大艦巨砲主義が主流の海軍で、山本五十六は航空主兵論に傾倒し傍流の海軍航空本部に入って航空機や空母の拡充を主導した。アメリカの巨大な国力・生産力を知る山本五十六は軍縮条約廃止に伴う対米関係悪化を憂慮し、米内光政・井上成美と「条約派」トリオを組み海軍主流「艦隊派」の軍拡反米英方針および米英を正面敵化する日独伊三国同盟に対抗した。命懸けの抵抗も虚しく対米開戦不可避の情勢となり、連合艦隊司令長官に就いた山本五十六は(テロの標的にされたため海相就任は見送られた)周囲の反対を抑えて航空兵力による真珠湾攻撃を敢行し見事大戦果をあげた。太平洋戦争緒戦の真珠湾攻撃とマレー沖海戦で山本五十六が挙行した航空機爆撃は世界戦史を一変させるインパクトを持ち、驚愕した米軍は航空機・空母の大増産に乗出したが、生産力が遥かに劣る日本で帝国海軍は猶も大艦巨砲主義に固執し勝算を逃してしまった。
-40点 真珠湾攻撃の成功に浮かれた山本五十六と連合艦隊司令部は、痛打を与えた後に早期講和に持ち込むという当初の計画を放棄し杜撰な作戦計画のもとミッドウェー海戦を強行、痛恨の大敗で制海権を奪回され緒戦の勝利は帳消しとなった。太平洋戦争が長引き早期講和の余地が消え行くなか、真珠湾攻撃で航空主兵論に目覚めたアメリカ軍は航空機や空母の大増産に乗出し続々と前線に投入、日本海軍は逐次拠点を奪われジリ貧となった。茫然自失の山本五十六司令官は為す術も無く日を送り、前線視察に出た搭乗機を狙い撃ちされ失意のまま世を去った。

史実

1884年 旧越後長岡藩の中級藩士(100石)高野貞吉の六男山本五十六が長岡城下にて出生

1889年 大日本帝国憲法発布

詳細を見る

1891年 山本権兵衛が西郷従道海相のもと海軍省大臣官房主事に就き海軍の分離独立改革を断行

詳細を見る

1893年 海軍軍令部設置

詳細を見る

1894年 日清戦争勃発

詳細を見る

1895年 下関条約で日清戦争終結、朝鮮(李朝)が初めて中国から独立しソウルに独立門建立

詳細を見る

1895年 三国干渉~露仏独が日本に遼東半島返還を要求

詳細を見る

1895年 台湾総督府設置

詳細を見る

1898年 列強による清の植民地争奪競争が激化

詳細を見る

1901年 北京議定書調印

詳細を見る
もっと見る

交遊録

米内光政 盟友
井上成美 盟友
山本英輔 航空主兵論の師匠
大西瀧治郎 良き部下
源田実 良き部下
山本権兵衛 海軍の父
加藤友三郎 偉大な先輩
財部彪 海軍仲間
斎藤実 山本権兵衛の副官
岡田啓介 海軍仲間
もっと見る