著名自分史「秋山真之」

オリジナル

秋山 真之

あきやま さねゆき

秋山 真之

1868年~1918年

70

連合艦隊先任参謀として日露戦争の作戦を担い世界最強の太平洋艦隊・バルチック艦隊を撃破した帝国海軍随一の奇才にして『坂の上の雲』の主人公

寸評

基礎点 70点 秋山真之は、日露戦争における海軍参謀陣のエースとして連合艦隊の作戦立案を担った『坂の上の雲』の主人公、司馬遼太郎史観の潤色で胡散臭さが漂うが正真正銘の奇才であった。松山の貧乏藩士の五男に生れた秋山真之は、9歳年長の兄秋山好古の援助で東京へ進学、共立学校・大学予備門から東大を目指したが志を転じて海軍兵学校(17期)へ進んだ。陸大1期生だった秋山好古は「日本騎兵の父」と称され陸軍大将となり、松山中学校・大学予備門で共に学んだ親友の正岡子規は東大(哲学科→国文科)へ進み「明治の文豪」となった。さて、「試験の神様」秋山真之は海兵を主席で卒業し米英へ留学、最新の海軍学と古今の戦史を渉猟して独自の戦術眼を養い、帰国後は顕職の常備艦隊参謀を経て34歳の若さで海軍大学校戦術教官に抜擢された。間もなく日露開戦が迫り、連合艦隊に呼ばれた秋山真之は山屋他人(海兵12期で前任戦術教官)ら並居る先輩を押退け先任参謀に昇格、東郷平八郎司令官・島村速雄(7期)参謀長から作戦立案を託された。秋山真之は旗艦「三笠」の寝床に籠って作戦に没頭し、島村から参謀長を継いだ加藤友三郎(7期)の頭越しに東郷平八郎司令官は秋山案を採用、連合艦隊は陸軍の支援を得て(203高地占領)旅順港に逼塞する太平洋艦隊を殲滅し、ウラジオストク港へ向かうバルチック艦隊を対馬沖で捉え「T字戦法(東郷ターン)」で撃破し海戦史上に輝く劇的勝利、世界最強と謳われたロシア海軍を壊滅させ皇帝ニコライ二世をポーツマス講和へ追込んだ。日露戦争後、秋山真之は海軍で神聖視され海軍省枢要の軍務局長に栄進したが、心身の不調で目立った活躍は出来ず、大本教に没入して盲腸炎の手術を拒み49歳の若さで世を去った。秋山真之が編出した「秋山兵術」は聖典となり、ほとんど修正されることなく太平洋戦争終結まで海軍大学校で継承されたという。

史実

1868年 松山藩の下級藩士秋山久敬の五男秋山真之が松山城下にて出生

1883年 秋山真之が15歳で上京し共立学校から大学予備門に入学

1885年 第一次伊藤博文内閣発足、西郷従道が海軍大臣就任(海軍卿の川村純義は宮中顧問官へ転任)

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1888年 黒田清隆内閣発足、西郷従道が海軍大臣就任

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1888年 鎮台制を師団制に改編

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1889年 大日本帝国憲法発布

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1889年 川上操六がドイツから帰国し参謀本部次長に復職、独軍参謀総長モルトケ直伝のドイツ式軍制改革や参謀本部強化を推進

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1890年 第一次山縣有朋内閣発足、西郷従道が海軍大臣就任(樺山資紀に途中交代)

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1890年 秋山真之が海軍兵学校(17期)を主席で卒業、艦隊勤務に就き軍艦「比叡」乗組み

1890年 エルトゥールル号遭難事件、秋山真之が乗務する軍艦「比叡」が生存乗員をイスタンブールへ送還

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交遊録

秋山好古 兄にして恩人
山本権兵衛 海軍のボス
西郷従道 薩摩海軍閥のドン
東郷平八郎 日露戦争のボス
島村速雄 日露戦争の上官
加藤友三郎 眼中に無い上官
川村純義 海軍仲間
伊藤祐亨 海軍仲間
井上良馨 海軍仲間
日高壮之丞 海軍仲間
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