著名自分史「児玉源太郎」

オリジナル

児玉 源太郎

こだま げんたろう

児玉 源太郎

1852年~1906年

100

華も実もある日露戦争の英雄にして植民地経営を初めて成功させた台湾総督、若死にが惜しまれる陸軍長州閥最高の逸材

寸評

基礎点 100点 児玉源太郎(長州藩支藩の徳山藩士)は、16歳の函館戦争で初陣を飾り25歳の西南戦争で熊本鎮台を死守した歴戦の勇、政治能力も抜群の陸軍長州閥期待の星であった。家督の姉婿が「俗論党」に殺され家名断絶・家禄没収の憂き目をみたが高杉晋作の長州維新で復権、児玉源太郎は「献功隊」下士官として戊辰戦争に参陣し、大村益次郎の京都河東操練所を経て新政府軍の将校となった。熊本鎮台の参謀に配された児玉源太郎は、佐賀の乱で瀕死の重傷を負いつつ神風連の乱の指揮を執り、西南戦争では参謀副長として谷干城司令長官を補佐し過酷な籠城戦を耐え抜いた。山縣有朋ら長州閥首脳は一佐官の児玉源太郎に期待を寄せ神風連の戦況より「児玉少佐ハ無事ナリヤ」と打電するほどであった。不平士族反乱の終息に伴い陸軍中央へ呼ばれた児玉源太郎は忽ち軍政の才を発揮、4歳上の桂太郎・川上操六と共に臨時陸軍制度審査委員会を主導し「陸軍の三羽烏」と称され、日清戦争では陸軍省枢要で川上操六の作戦遂行を補佐し、戦後処理・三国干渉対応・台湾総督府設立を主導した。台湾統治が難渋すると児玉源太郎は第4代総督に就任、後藤新平を民政局長に抜擢し民生向上と警察力強化のアメムチ政策により初めて植民地経営を成功させ、死の直前まで8余年も台湾総督を兼務した。児玉源太郎は第四次伊藤博文内閣に陸相で初入閣し続く第一次桂太郎内閣で内相へ転じたが、日露戦争が起ると自ら参謀本部次官への降格人事を行い満州軍総参謀長に就き出征、大山巌総司令官に軍令一切を託され勝利の立役者となった。が、奉天会戦で勝利を決めた児玉源太郎は直ちに内地へ帰還、戦勝に浮かれる大本営に戦力払底を訴えて進撃論を封じ、伊藤博文・山本権兵衛海相と連携し渋る桂太郎首相をポーツマス講和へ導いた。日露戦争の英雄となった児玉源太郎は大山巌から陸軍参謀総長を引継ぎ、伊藤博文・井上馨ら穏健派元老の受けも良く日本の舵取り役を期待されたが、惜しくも翌年50歳の若さで世を去った。陸軍長州閥の児玉源太郎と薩摩海軍閥の山本権兵衛、同年生れの逸材二人が日本を率いていれば、歴史は変わったに違いない。

史実

1852年 徳山藩(長州藩支藩)の中級藩士(家禄100石)児玉半九郎の嫡子児玉源太郎が周防都濃郡徳山村にて出生

1864年 禁門の変

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1864年 徳川慶喜が長州追討の勅命を得て第一次長州征討を決行

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1864年 馬関戦争~英仏蘭米の四国連合艦隊が下関を攻撃し長州藩を降伏させる

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1864年 長州藩で俗論党(佐幕恭順派)が主導権を握り正義派(尊攘派)を粛清、絶望した周布政之助が山口にて自殺(享年42)

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1864年 長州藩「正義派」に属する児玉次郎彦(児玉源太郎の姉婿)が暗殺され児玉家に家名断絶・家禄没収処分

1864年 長州藩恭順により第一次長州征討が停戦・征長軍全権に任じられた西郷隆盛が宥和路線を主導

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1864年 高杉晋作が前原一誠・中岡慎太郎の遊撃隊60人・伊藤博文の力士隊30人のみで功山寺挙兵を決行(奇兵隊の山縣有朋らは日和見)

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1865年 高杉晋作率いる諸隊が大田・絵堂の戦いに勝利し正義派が長州藩の政権を奪回

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1865年 禁門の変で失踪した木戸孝允が長州藩に戻り藩政を掌握、13歳の児玉源太郎が家名再興を赦される

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交遊録

大村益次郎 大先生
前原一誠 上司
山田顕義 大村の腹心
高杉晋作 長州藩の英雄
木戸孝允 長州藩のドン
伊藤博文 長州藩のドン
山縣有朋 陸軍長州閥のドン
井上馨 長州藩の重鎮
桂太郎 山縣の子分
寺内正毅 山縣の子分
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