著名自分史「川上操六」

オリジナル

川上 操六

かわかみ そうろく

川上 操六

1848年~1899年

80

薩摩軍閥のホープとしてモルトケ直伝のドイツ式軍制改革を主導した「近代陸軍の創始者」にして日清戦争の作戦(軍令)を担った「作戦の神様」

寸評

基礎点 80点 明治維新から日清戦争まで僅か27年の間に日本は近代的軍隊を創り上げたが、陸軍の実務面では川上操六の功績が大きく「近代陸軍の創始者」と称された。薩摩藩士の川上操六は20歳で戊辰戦争に従軍、そのまま新政府軍へ進んで頭角を現し、西南戦争で軍歴を積み薩摩軍閥のホープと目された。軍隊の近代化を急ぐ明治政府は大山巌(薩摩)陸軍卿を団長とする軍事調査団を欧州へ派遣、随行した川上操六は同年生れの桂太郎(長州)と意気投合し、普仏戦争でフランスを下したドイツ陸軍に倣った軍制改革を決意した。軍事研究のため再び渡独した川上操六は(長州の乃木希典と同行)「近代軍制の創始者」と称された独軍参謀総長モルトケおよびワルデルゼー参謀次長に師事し、1年半みっちり学んで帰国すると参謀本部次長に復職し(参謀総長はお飾りの有栖川宮熾仁親王)大山巌陸相のもと矢継ぎ早に軍制改革を断行した。川上操六は先ず、陸軍省との区切りが曖昧で影が薄かった参謀本部の改革強化に乗出し「作戦計画の府」に恥じない組織に変貌させ、藩閥に拘らず有能な人材を集め育成したため参謀本部はエリート集団へ様変わりした。参謀本部に詰め切りの川上操六は夜は毛布にくるまって寝ながら一心不乱に陸軍改造事業に没頭し、師団制の整備充実・軍備兵制の近代化はもとより、戦術・情報・操典・兵站・衛生・通信・運輸・測量・行軍に至るまで全陸軍のあらゆる軍制が刷新され、早くも3年目の1892年には川上改革は一段落を迎えた。40歳そこそこで陸軍の近代化を牽引し参謀本部を「創始」した川上操六は「作戦の神様」と称され、長州閥の調整や軍政面を担当した桂太郎・児玉源太郎と共に「陸軍の三羽鴉」に数えられた。朝鮮を巡り清との関係が破綻すると伊藤博文首相は作戦会議を開催、軍制改革を完了した川上操六は「陸軍は勝てる」と断言し陸奥宗光外相と共に首脳陣を日清戦争に踏切らせ、征清総督府参謀長に就き内地から陸軍の出師計画や作戦軍略を差配した。川上操六は「日本海軍の父」山本権兵衛に比肩する偉業を果し、政治や藩閥に距離を置く良質な陸軍首脳であったが、日清戦争で死力を尽くし戦後4年目に惜しくも50歳で病没した。

史実

1848年 薩摩藩士川上伝左衛門親徳の三男として出生

1858年 薩摩藩主の島津斉彬が急死し率兵上洛計画が頓挫(享年50。毒殺説あり)、養嗣子(島津久光の子)の島津忠義が12代藩主に就任し10代藩主の島津斉興(斉彬・久光の父)が実権を奪回

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1861年 薩摩藩の実権を掌握し率兵上洛を期す島津久光が人事改革を断行し反抗勢力を一掃して小松帯刀・大久保利通らを抜擢

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1862年 島津久光が率兵上洛するが寺田屋騒動で有馬新七ら過激藩士を粛清

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1862年 薩摩藩の島津久光が率兵江戸入りし幕政改革を断行(文久の改革)・謀臣の大久保利通と小松帯刀が暗躍、徳川慶喜を将軍後見職・松平春嶽を政治総裁職にねじ込む

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1864年 禁門の変

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1864年 徳川慶喜が長州追討の勅命を得て第一次長州征討を決行

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1864年 長州藩恭順により第一次長州征討が停戦・征長軍全権に任じられた西郷隆盛が宥和路線を主導

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1865年 徳川慶喜の策動により将軍徳川家茂が上洛し第二次長州征討を号令

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1866年 薩長同盟

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交遊録

モルトケ 軍制の師匠
ワルデルゼー 軍制の師匠
西郷隆盛 薩摩藩のドン
篠原国幹 西郷隆盛の子分
村田新八 西郷隆盛の子分
桐野利秋 西郷隆盛の子分
辺見十郎 西郷隆盛の子分
大久保利通 薩摩藩のドン
大山巌 薩摩陸軍閥のドン
西郷従道 薩摩海軍閥のドン
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