著名自分史「雪舟」

オリジナル

雪舟

せっしゅう

雪舟

1420年~1506年

80

中国作品の模写を脱して日本風水墨画を確立し『四季山水図』『秋冬山水図』『破墨山水図』『慧可断臂図』『天橋立図』など国宝6点と数多の重文作品を遺した日本画壇の巨星

寸評

基礎点 80点 雪舟は、中国作品の模写を脱して日本風水墨画を確立し『四季山水図』『秋冬山水図』『破墨山水図』『慧可断臂図』『天橋立図』など国宝6点と数多の重文作品を遺した日本画壇の巨星、江戸時代に狩野派に崇敬され芸術神となった。作品の多くは山水画だが肖像画や花鳥画も描き、雪舟が造園を手掛けたという「雪舟庭」も山口・島根・福岡などに現存する。備中赤浜の武家小田氏に生れ幼少期に総社井尻野の臨済宗寺院宝福寺に入門、絵に熱中する余り禅修行に身が入らない雪舟(拙宗等揚)は柱に縛られるが足先を使い零した涙で実物と見紛う鼠を描き禅師を感嘆させたと伝わる。なお「達磨絵」や「頂相(師の肖像画)」に象徴されるように水墨画は禅宗のなかで発展した宗教芸術であり、屋敷を飾るための彩色画や工芸品の職人芸とは一線を画すものであった。さて雪舟は、10歳のころ京都相国寺に移り春林周藤から禅を学びつつ画僧として著名な天章周文・如拙から水墨画を学び『山水図』の制作を開始、24歳で卒業すると大内教弘の招きで周防山口に移住し「雲谷庵」で創作に専心する生活に入った。応仁の乱勃発の翌年、48歳の雪舟は本場中国で水墨画を学ぶため勘合貿易船に乗込み明へ渡海、夏珪・李唐など宋・元代の水墨画に感化されて模写に励み揚子江流域など中国各地を写生旅行し「風景こそ最大の師」という孤高の境地に到達、天童山景徳禅寺で「四明天童山第一座」の尊称を贈られ首都北京でも画名を博した。2年弱の滞在を終え帰国した雪舟は、周防山口を拠点に豊後や石見へも足を伸ばし美濃や天橋立への創作旅行も敢行、86歳まで長寿を保ち石見益田で病没した(雪舟が庇護者の益田兼堯を描いた『兼堯像』が現存)。雪舟様式の特徴は安定感のある構図や力強い筆致に顕著で、大胆で構築的な空間構成,強調された輪郭線と細い線による簡略化された皴法,墨の濃淡を操る妙技は今も国際的に高い評価を得る。安土桃山時代になると武士の派手好みに応じて邦画の主流は岩絵具を用いる彩色画(いわゆる日本画)へ移ったが、江戸時代に画壇を支配した狩野派が雪舟を師と仰ぎ諸大名も追従、「雪舟作」を騙る作品が多く出回ることとなった。

史実

1420年 備中赤浜の武家小田氏に生れ幼少期に総社井尻野の臨済宗寺院宝福寺に入門、絵に熱中し禅修行に身が入らない雪舟(拙宗等揚)は柱に縛り付けられるが足先を使い零した涙で実物と見紛う鼠を描き禅師を感嘆させる

1423年 足利義持が隠居し嫡子の足利義量が5代室町将軍就任

1425年 将軍足利義量死去、将軍空位のまま前将軍足利義持が幕府を掌握

1428年 近江坂本・大津の馬借から起った徳政強訴が畿内一帯に波及し初の農民一揆発生(正長の土一揆)

1428年 前将軍足利義持死去、義持の弟4人から籤引きで選ばれた天台座主義円が還俗して足利義教として6代室町将軍就任、将軍位を狙う鎌倉公方足利持氏が反抗

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1430年 このころ雪舟(拙宗等揚)が臨済宗本山の京都相国寺に移り春林周藤から禅を学びつつ画僧として著名な天章周文から水墨画を学び『山水図』を制作

1435年 将軍足利義教が反抗する延暦寺を武力制圧、24人の門徒が抗議の焼身自殺

1436年 足利義満の寵愛により時宗念仏踊り・猿楽から幽玄能を創始した『風姿花伝』の著者世阿弥(観世氏の家祖観阿弥の子)が佐渡流刑に処される

1438年 [永享の乱]鎌倉公方足利持氏と対立した山内上杉憲実が関東管領を辞任し領国上野国に退去、持氏は征討軍を送るが、将軍足利義教が持氏追討軍を派遣、扇谷上杉持朝も山内上杉支持で参戦し、足利持氏・義久父子と稲村公方足利満貞を自害させ鎌倉公方は一旦滅亡

1439年 上杉憲実が足利学校を復興

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交遊録

天章周文 京都相国寺の水墨画師匠
如拙 水墨画師匠
春林周藤 京都相国寺の臨済禅の師匠
龍崗真圭 画壇の大物
宗湛 幕府御用絵師に任じられた周文弟子
狩野正信 足利義教に招かれた宗湛後継の室町幕府御用絵師
狩野元信 狩野派を創始した正信嫡子
狩野永徳 狩野派を大成した元信孫
土佐光信 朝廷絵所預の大和絵土佐派創始者・狩野元信舅とも
李在 明人の水墨画師匠
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