著名自分史「山田長政」

オリジナル

山田 長政

やまだ ながまさ

山田 長政

年~年

80

裸一貫でシャム(タイ)へ渡り中継貿易の利潤と日本人傭兵団の武力でアユタヤ王朝の軍事を握るが政争に敗れてリゴール王に左遷され毒殺された中世唯一の国際人、没後アユタヤ日本人町は焼払われ江戸幕府の鎖国により自然消滅

寸評

基礎点 80点 山田長政は、裸一貫でシャム(タイ)へ渡り中継貿易の利潤と日本人傭兵団の武力でアユタヤ王朝の軍事を握るが政争に敗れてリゴール王に左遷され毒殺された中世唯一の国際人、没後アユタヤ日本人町は焼払われ江戸幕府の鎖国により自然消滅した。駿府馬場町の庶民の出自で、沼津藩主大久保忠佐の駕籠を担いだというから屈強な無頼青年であったろう、20歳のころ喧嘩で博徒を殺傷し国外へ逃亡したと伝わる。大御所徳川家康の膝元駿府は貿易船の往来も活発で、山田長政は清水港から朱印船に乗込み台南経由でアユタヤ日本人町に上陸、東南アジアを股に掛ける大仲買商人へ躍進する一方で津田又左右衛門が率いる日本人傭兵団に加盟した。チャオプラヤー川にパサック川が合流するアユタヤ(バンコク北郊)は古来物資の集積地で東南アジア貿易の商都として栄えたが、22代アユタヤ王のエーカートッサロットがオランダ・イギリスに門戸を開き中継貿易が興隆、市の南東に外国人居留地が現れ日本人町も形成された。一方、先代のナレースワン王の時代にアユタヤ王朝はビルマから独立を果したが豊かさ故に狙われ続け軍隊は脆弱、パタニなど南方のマレー系王朝を従えるも反乱に脅かされた。1611年ソンタムが後継王を簒殺し24代王位を奪取、敵国ビルマも雇うポルトガル人傭兵団から日本人傭兵団へ切替えると関ヶ原・大坂浪人・キリシタンや貿易商人がアユタヤに蝟集し日本人町は膨張した。日本人町・傭兵団の頭領に納まった山田長政は内乱や外征で武勲を重ねソンタムの信任を獲得、1621年ソンタムが徳川幕府に修好使節を派遣した際には老中土井利勝へ親書を送るなど斡旋の労をとり以後も幕閣と交流を続けた。1628年山田長政は王女を妻に迎え人臣最高位のオークヤーに栄達したが程無くソンタムが死去、長政は遺言に従い遺児を即位させるが政敵のプラーサートトーンが幼君を殺害し王位を簒奪、華僑勢力の圧力もあって長政はアユタヤから追出され南方マラッカの防衛拠点リゴールの王に左遷された。山田長政は反乱したパタニとの戦闘中に足を負傷し王の刺客に毒を塗られ落命、後継の嫡子は日本人に暗殺されアユタヤの日本人勢力は一掃された。

史実

1590年 (詳細不明)山田長政が駿府馬場町の庶民の子として出生(紺屋に再嫁した女の連子とも)、長じて沼津藩主大久保忠佐の六尺(駕籠かき)となる

1590年 [小田原征伐・天下統一]後北条氏家臣猪俣邦憲による真田昌幸領侵犯・惣無事令違反を名分に豊臣秀吉が20万の大軍を率いて侵攻、支城を落とし小田原城を重包囲(大谷吉継・長束正家と共に忍城・館林城攻略を命じられ初めて実戦を指揮した石田三成は「猿真似」で水攻めを試みるが大失敗)、徳川家康(氏直は娘婿)が早期降伏を促すが断念、北条氏政・氏直父子は3ヶ月の「小田原評定」の末に結局降伏し後北条氏滅亡し(最後の説得役は軍師黒田官兵衛)秀吉は天下統一を達成~戦後仕置で秀吉は強敵家康から駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の5カ国150万石を召上げ武蔵・伊豆・相模・上野・上総・下総の6カ国と下野・常陸の一部250万石へ移封、家康は黙って従い江戸城を本拠とし大規模都市開発に着手

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1590年 [宇都宮仕置・奥州仕置]豊臣秀吉が大軍を率いて会津まで進み北関東・東北諸大名の領土再編を断行、佐竹義重(常陸太田城54万石)・最上義光(出羽山形城24万石)・南部信直(陸奥九戸城10万石)・相馬義胤(陸奥小高城4万8千石)・秋田実季(出羽秋田5万2千石)・小野寺義道(出羽横手4万7千石)・戸沢盛安(出羽角館4万4千石)・津軽為信(出羽津軽3万石)らは本領安堵、遅参した伊達政宗は本領72万石のみ安堵され本拠の会津も没収されて150万石から大減封(会津黒川城から米沢城へ移動)、反抗した葛西晴信・大崎義隆他は改易、没収領は蒲生氏郷に会津など42万石(伊勢松阪12万石から増転封、氏郷は黒川を若松に改名し増改築した鶴ヶ城へ転居、翌年再加増されて92万石)、木村吉清・清久父子に葛西・大崎領30万石(知行5千石から破格の出世)を付与、奥羽司令官任官且つ飛躍的増封ながら天下への夢絶たれ嘆く蒲生氏郷と領地奪回を企む伊達政宗の暗闘が勃発、仕置後の統治政策は検地奉行の石田三成が主導

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1590年 関八州250万石へ移封された徳川家康が家臣団の領地を再編、「徳川四天王」の井伊直政(家康の養女婿)は上野箕輪城12万石(高崎城へ移動)・本多忠勝は上総大多喜城10万石・榊原康政は上野館林城10万石・酒井家次(忠次の嫡子)は下総臼井3万7千石(忠次が不満を訴えると家康は「お前も子が可愛いか」と信康事件の報復を仄めかす)、大久保忠世は相模小田原城4万5千石・嫡子の大久保忠隣は武蔵羽生2万石、後に台頭する本多正信は相模玉縄1万石に封じられ大名に列す

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1590年 祖父の狩野元信が興した職業画家集団「狩野派」を引継ぎ織田信長・豊臣秀吉に寵遇され安土城・大坂城・聚楽第の障壁画や『聚光院障壁画(国宝)』『唐獅子図屏風(国宝)』『洛中洛外図屏風(国宝)』『檜図屏風』を制作した安土桃山文化の旗手 狩野永徳が東福寺法堂の天井画を制作中に過労死(享年47)、孫の狩野探幽が徳川幕府の御用絵師となり子孫は幕末まで日本画壇に君臨する

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1590年 徳川家康家臣の服部半蔵正成が遠江に知行8千石を与えられ正式に伊賀・甲賀衆の支配役に任じられる

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1590年 前田利家の家臣で中条流当主の富田重政(景政の婿養子で実父は山崎景隆)が佐々成政を撃退した「末森城の後巻」での一番槍・小田原征伐の武蔵八王子城攻めの武功により大名並みの1万3千石を与えられ「名人越後」と称される(武将としての知行だが1万石以上を得た兵法家は後の柳生宗矩のみ、ただし後嗣重康の没後に富田家と中条流=富田流は衰退する)

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1590年 不行跡を改めない前田慶次郎利益が主君で義叔父の前田利家と衝突し出奔(改心を装って利家を茶の湯に招き水風呂に叩き込んでそのまま逃走したという伝説あり)、京都で気儘な浪人生活を送り「穀蔵院飄戸斎(ひょっとさい)」なるふざけた名乗りで里村紹巴・九条稙通・古田織部・細川藤孝ら一流文化人と交流(豊臣秀吉の諸大名饗応に紛れ込んだ慶次郎が「猿真似の猿舞」で秀吉をおちょくったという伝説あり)

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1591年 豊臣秀吉の突然の命令により「利休道具」の錬金術と侘茶接待で大名統治に貢献した茶頭千利休が切腹(享年70)、千家は閉門となり茶頭は高弟の古田織部に引継がれるが蒲生氏郷・細川忠興ら「利休七哲」や徳川家康・前田利家の取成しで赦免され、孫の千宗旦の子が武者小路千家・表千家・裏千家を興し「三千家」は上流社会に憧れる庶民を惹きつけ全国に鼠講を張巡らせて今日まで繁栄を続ける

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1591年 豊臣秀吉唯一の男児鶴松(生母は側室淀殿)が2歳で夭折

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交遊録

クン・セーナーピムック 没後暗殺された嫡子
エーカートッサロット 22代アユタヤ王
スタット親王 エーカートッサロットが誅殺した長子
シーサオワパーク 23代アユタヤ王・ソンタムが殺害
ソンタム 主君・24代アユタヤ王
チェーターティラート ソンタム遺児・25代アユタヤ王に擁立したがプラーサートトーンが殺害
アーティッタヤウォン ソンタム遺児・26代アユタヤ王に擁立したがプラーサートトーンが殺害
プラーサートトーン 政敵・27代アユタヤ王
プラパン・シーシン プラーサートトーンが殺害
大久保忠佐 駕籠かきとして仕えた沼津藩主
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