著名自分史「鈴木(雑賀)重秀(孫一)」

オリジナル

鈴木(雑賀) 重秀(孫一)

すずき(さいか) しげひで(まごいち)

鈴木(雑賀) 重秀(孫一)

1546年~1586年

60

鉄砲傭兵集団「雑賀衆」を率いて本願寺顕如を援け石山合戦を指揮したが時流を悟り織田信長・豊臣秀吉に帰順、雑賀衆は滅亡したが後継者の鈴木重朝の子孫が水戸藩重臣として存続

寸評

基礎点 60点 鈴木重秀(雑賀孫一)は、鉄砲傭兵集団「雑賀衆」を率いて本願寺顕如を援け石山合戦を指揮したが時流を悟り織田信長・豊臣秀吉に帰順、雑賀衆は滅亡したが後継者の鈴木重朝の子孫が水戸藩重臣として存続した。藤白鈴木氏は記紀に登場する穂積氏の嫡流で熊野神社の禰宜を世襲した名門だが、国人割拠の紀伊で戦国大名は育たず、鷺森別院を拠点に紀伊を支配する一向一揆の盟主的立場に留まった。1543年の鉄砲伝来から間もなく紀伊根来寺の津田算長が種子島から火縄銃一挺を持ち帰ると刀鍛冶の多い紀伊や堺で鉄砲製造業が興隆、新兵器を駆使する雑賀衆・根来衆は引張り蛸となったが、1569年堺の自治権を奪った織田信長に硝煙(火薬の主原料で当時は国内で産出せず)の調達を妨害された。雑賀衆首領の鈴木重意は、三好三人衆の要請に応じ根来衆と共に600余の鉄砲隊を率いて織田軍と戦い、1570年石山合戦が始まると次男の鈴木重秀を派遣、用兵にも優れた鈴木重秀は下間頼廉と共に「大坂左右大将」と称された。各地で勃興する一向一揆に手を焼いた織田信長は、本丸の顕如を猛撃するが難攻不落の石山本願寺を落とせず、1577年雑賀衆を排除すべく根来衆を寝返らせ大軍で紀州を制圧すると鈴木重秀は進んで帰順、上杉謙信の急死で信長包囲網が瓦解し顕如も11年に及んだ抗戦を断念した。鉄砲の威力を思い知らされた織田信長は、他の戦国大名に先賭けて鉄砲装備を強化し長篠の戦いで武田騎馬隊を撃滅したが、「三段撃ち」や装填・銃撃分業制は雑賀衆に倣ったものだという。君主権に逆らう宗教勢力や傭兵集団は天下統一の宿敵であり、忍者は天正伊賀の乱で信長に、三島村上水軍・鉄砲集団は海賊停止令・紀州征伐で豊臣秀吉に滅ぼされた。統一政権での生残りを図る鈴木重秀は、1582年土橋守重を謀殺して反対意見を封じるが本能寺の変で主導権を奪われ逃亡、1585年豊臣秀吉は藤堂高虎に命じて鈴木重意を暗殺し大軍を派して雑賀衆・根来衆を殲滅した。鈴木重秀は子の孫一郎を人質に出して秀吉に帰順、没後に家督を継いだ弟の鈴木重朝は1万石で秀吉に仕え徳川家康に転じて鈴木家を保った。

史実

1546年 紀伊北部を領する雑賀衆首領の鈴木重意の次男に鈴木重秀が出生

1546年 [舎利寺の戦い]細川晴元に反逆した将軍足利義晴・細川氏綱・細川政国・遊佐長教の反乱を三好長慶の阿波勢と六角定頼の近江勢が制圧、義晴は逃亡先の近江坂本で隠居し10歳の嫡子足利義輝に13代室町将軍を継がせる(2年後に義晴は晴元と和解して京都に戻り晴元は義輝の将軍就任を承諾する)

詳細を見る

1547年 三河岡崎城主松平広忠が6歳の嫡子竹千代(徳川家康)を今川義元へ人質に送るが、駿府へ護送中に家臣戸田康光が裏切り織田信秀に売却、信秀は臣従を強要するが広忠は拒絶、竹千代は危うくも生かされ2年間を尾張で過ごす(織田信長と会った可能性が高い)

詳細を見る

1547年 [加納口の戦い]斎藤道三が尾張織田信秀の侵攻軍を撃破し美濃一国を完全平定、土岐政頼自害・土岐頼芸の越前朝倉家亡命で美濃守護土岐氏は滅亡

詳細を見る

1548年 連戦連勝の長尾景虎(上杉謙信・長尾為景の子)が家臣・国人衆に推戴され家督と越後守護代を承継(兄長尾晴景は隠居)、2年後に傀儡守護の上杉定実が後嗣無く死去し室町将軍足利義輝から越後国主の承認を受け、翌年坂戸城の戦いで上田長尾政景を降して22歳で越後国統一を達成

詳細を見る

1548年 [第2次小豆坂の戦い]駿遠の今川義元と尾張の織田信秀が三河を巡り決戦、太原雪斎の軍略により勝利した今川氏が三河を支配圏に治め駿河・遠江・三河の太守となる

詳細を見る

1548年 [天文の乱]奥州探題大崎義直・羽州探題最上義守をはじめ葛西・相馬・蘆名ら南奥羽諸豪を従属させた陸奥守護伊達稙宗(政宗の曽祖父)が娘婿相馬顕胤への領地割譲・三男伊達実元の越後守護上杉定実への入嗣を画策、猛反発した嫡子伊達晴宗が稙宗を幽閉するが脱出し諸豪を巻込んで6年に及ぶ大乱に発展、室町将軍足利義輝の仲裁により稙宗隠居・晴宗への家督禅譲で決着するが伊達氏は求心力を喪失、稙宗を寝返り晴宗勝利に導いた蘆名盛氏は伊達氏と肩を並べるまでに成長し伊達家中では中野宗時が台頭

詳細を見る

1549年 斎藤道三が織田信秀と和睦し娘の帰蝶を嫡子織田信長に嫁がせる

詳細を見る

1549年 [キリスト教伝来]イエズス会のフランシスコ=ザビエルが鹿児島に上陸、薩摩国主島津貴久は布教を許すが仏教界の反対に遭って獲得信者は150人のみ、期待した南蛮船も入航せず貴久は布教を禁止、ザビエル一行は全国布教許可を得るため上洛するが京都の荒廃と足利将軍の権威失墜に失望して在京15日で退去し再び西下、仰々しい装いに改めた効果で肥前平戸の松浦隆信・周防山口の大内義隆・豊後府内の大友義鎮(宗麟)から歓待され、各領内に布教体制を築いてインドへ去る(日本滞在は2年余)

1549年 今川義元と織田信秀の合戦で松平家・岡崎衆は今川方先鋒として三河安祥城を攻略し城主の織田信広(信長の庶兄)を確保(本多忠勝の父本多忠高が戦死)、太原雪斎の献策により竹千代(徳川家康)と織田信広の人質交換が成立・竹千代は駿府に移され当主を人質にとられた松平家は今川の属国となり家臣は虐待され合戦ごとに最前線の危地に送られる

詳細を見る
もっと見る

交遊録

鈴木重意 父・紀州征伐で豊臣秀吉・藤堂高虎に謀殺される
鈴木孫一郎 豊臣家へ人質に出した重秀嫡子
鈴木重兼 早世した重意長子
鈴木重朝 水戸藩士となった重意三男
鈴木重次 重朝嫡子
土橋守重 雑賀衆有力者・路線対立で鈴木重秀が暗殺
土橋重治 毛利家に仕えた守重弟
津田監物(算長) 紀州に鉄砲を伝えた根来衆
杉ノ坊自由斎 根来衆・砲術自由斎流の開祖
岩室坊勢意 根来衆・毛利家に仕え三万石
もっと見る