著名自分史「佐々木小次郎」

オリジナル

佐々木 小次郎

ささき こじろう

佐々木 小次郎

1555年~1612年

60

中条流の富田勢源の練習台から長大剣を極めた奇形剣士、師の富田景政に勝って越前一条谷を出奔し「物干し竿」と秘剣「燕返し」で西国一円に名を馳せ豊前小倉藩の剣術師範となるが「巖流島の決闘」で宮本武蔵に撲殺され「巖流」は消滅

寸評

基礎点 60点 佐々木小次郎は、中条流の富田勢源の練習台から長大剣を極めた奇形剣士、師の富田景政に勝って越前一条谷を出奔し「物干し竿」と秘剣「燕返し」で西国一円に名を馳せ豊前小倉藩の剣術師範となるが「巖流島の決闘」で宮本武蔵に撲殺され「巖流」は消滅した。佐々木小次郎の名は忘れ去られ細川家(肥後熊本藩へ移封)の後釜には武蔵が座ったが、没後150年を経て武蔵の伝記物語『二天記』が現れ好敵手役で復活した。富田家(越前朝倉氏の家臣)が住した越前宇坂庄浄教寺村に生れ富田勢源に入門、「無刀」を追求する勢源は小太刀の精妙を得べく佐々木小次郎に長大剣を持たせ練習台にしたが、小次郎は勢源が打ち込めないほどに上達し柳の枝が飛燕に触れる様に着想を得て切先を反転切上げる秘剣「燕返し」(虎切りとも)を会得、18歳のとき新春恒例の大稽古で富田景政(勢源の弟で中条流相伝者)と立合うとまさかの勝利を収め、門弟達の恨みを恐れ直ちに越前一条谷を去り廻国修行の旅へ出た。そのご朝倉義景が織田信長に滅ぼされ富田景政は4千石で前田利家に出仕、婿養子の富田重政は(景政の一子景勝は賤ヶ岳合戦で戦死)佐々成政を撃退した「末森城の後巻」で一番槍の武功を挙げ大名並みの1万3千石の知行を得たが、後嗣富田重康の没後富田家と中条流(富田流)は衰退した。さて「物干し竿」と称された1m近い愛刀備前長光を背に西国一円を渡歩いた佐々木小次郎は、「燕返し」で次々と兵法者を倒して伝説的剣豪となり、豊前小倉藩39万9千石の細川忠興の招きで城下に巌流兵法道場を開き30余年の放浪生活を終えたが、老いて名高い小次郎は野心に燃える宮本武蔵の的にされた(この前に毛利家に仕えたともいわれ、吉川藩の周防岩国城下・錦帯橋そばの吉香公園には佐々木小次郎像がある)。宮本武蔵は手段を選ばず「窮鼠猫を噛む」流儀で兵法者60余を倒した我流剣士で脂の乗った29歳、小倉藩家老の長岡佐渡(武蔵の父または主君とされる新免無二の門人とも)を動かして佐々木小次郎を「巖流島の決闘」に引張り出し、二時間遅れて到着すると出会い頭の一撃で小次郎を撲殺、約を違え帯同した弟子と共に打殺したともいわれる。

史実

1555年 (詳細不明)佐々木小次郎が越前宇坂庄浄教寺村にて出生

1555年 朝倉宗滴が越後の長尾景虎(上杉謙信)に呼応して加賀一向一揆討伐に出陣、1日で南郷・津葉・千足の3城を落とし大聖寺を攻囲するが、陣中で病に倒れ一乗谷で死去(享年79)、柱石を喪った朝倉氏は凡庸な義景の下で一族や家臣の内紛が頻発し弱体化、一向一揆の反攻に晒され、18年後宗滴が大器を見抜いた織田信長に滅ぼされる

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1555年 [厳島の戦い(日本三大奇襲)]乾坤一擲の劣勢挽回を図る毛利元就が反間の計で大内軍を狭い厳島に誘い込み、小早川隆景の調略で村上武吉・村上通康の村上水軍を味方に付け海上封鎖したうえで闇夜に渡海上陸し山上から急襲、大内軍潰走のなか逃げ遅れた陶晴賢は厳島青海苔浦で自害、一気に視界が開けた元就は直ちに大内家乗取りに奔走

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1555年 能島村上水軍の村上武吉・来島村上水軍の村上通康が小早川隆景からの「1日だけの味方」要請に勝利を予見し毛利元就の厳島合戦に参戦、村上水軍の手引きで闇夜に紛れて厳島へ渡り退路を封じた毛利軍は陶晴賢の大軍を奇襲で殲滅、村上水軍は毛利による大内家乗取り(防長経略)に協力して勢力を伸ばし塩飽諸島や備後小早川氏の水軍衆と提携して瀬戸内海を掌握

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1555年 天文の乱を制し家督を継いだ伊達晴宗(政宗の祖父)が弟の大崎義宣・葛西晴清を含む稙宗派を粛清し男児を岩城・留守・石川・国分・杉目氏の養子に女児を二階堂・小梁川・蘆名氏・佐竹義重に縁付けて勢力回復に努め、後援する将軍足利義輝をしてより奥州探題に補される

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1555年 北条氏康が上野大胡城を攻略するが箕輪城主長野業正が奪回、主君の大胡氏と共に長野家臣団に編入された上泉伊勢守信綱(上泉城主)は武田信玄・北条氏康の大軍を相手に奮戦して武名を轟かせ同時に新陰流兵法も発展を遂げる

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1556年 [長良川の戦い]廃嫡の陰謀に気付いた斎藤義龍(実は土岐頼芸の落胤とされる)が弟の竜重・竜定を斬殺したうえ父斎藤道三を討って(享年63)美濃国主を承継(道三方の明智城主明智光安・光久兄弟は討死し逃亡した甥の明智光秀は諸国流浪の末に越前朝倉義景に仕官)、道三から美濃の国譲り状を得た娘婿織田信長は救援軍を出すが間に合わず

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1556年 67歳の塚原卜伝が養子の幹重に家督を譲って剃髪出家し13代将軍足利義輝を援けるため三たび上洛、近江で亡命生活を送る義輝に小太刀を指南し2年後の京都帰還に際して新当流の印可と秘剣「一つの太刀」を授与、卜伝は退いて大徳寺に参禅したあと京都を去って諸国を旅し伊勢国司北畠具教に「一つの太刀」を授け甲斐の山本勘助や近江の蒲生定秀を歴訪、義輝が三好三人衆に襲われ斬死すると京都相国寺の牌所を詣で10年の旅を終えて常陸鹿島へ帰国

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1557年 [防長経略]毛利元就が陶晴賢の勢力を駆逐して大内家を乗取り周防・長州を奪取、陶の傀儡大内義長(義隆の甥)は実兄の大友義鎮(宗麟)に見捨てられ自害(毛利氏は義長の助命を申送ったが身内への猜疑心が強い義鎮はむしろ処刑を要求したとも)、元就は北九州へ食指を伸ばすが義鎮は筑前古処山城主の秋月文種を自害させるなど毛利方勢力を掃討して豊前・筑前を制圧(実行役は立花道雪)

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1557年 第3次川中島の戦い(上杉謙信vs.武田信玄)

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交遊録

中条兵庫頭長秀 中条流創始者
富田勢源 中条流継承者(富田流)
富田景政 中条流と富田家を継いだ勢源弟
富田重政 名人越後・加賀前田利家で1万3千石の知行を得た景政養嗣子
戸田一刀斎 景政高弟で伊東一刀斎・柳生宗厳の師
山崎左近将監 富田一族・山崎流開祖
長谷川宗喜 景政高弟・長谷川開祖
富田一放 伊東一刀斎が初仕合で斃した富田重政高弟
小野忠明(神子上典膳) 徳川秀忠の兵法指南役に採用された一刀流継承者
小野忠常 (小野派)一刀流を継いだ忠明後嗣
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