著名自分史「宮本武蔵」

オリジナル

宮本 武蔵

みやもと むさし

宮本 武蔵

1584年~1645年

70

我流の度胸剣法で京流吉岡憲法・巌流佐々木小次郎ら60余の兵法者を倒して円明流(二天一流)を興し晩年『五輪書』を著した血闘者、意外に世渡り上手で本多忠刻・小笠原忠真・細川忠利に仕え養子の宮本伊織は豊前小倉藩の筆頭家老・4千石に栄進

寸評

基礎点 70点 宮本武蔵は、我流の度胸剣法で京流吉岡憲法・巌流佐々木小次郎ら60余の兵法者を倒して円明流(二天一流)を興し晩年『五輪書』を著した血闘者、意外に世渡り上手で本多忠刻・小笠原忠真・細川忠利に仕え養子の宮本伊織は豊前小倉藩の筆頭家老・4千石に栄進し子孫は幕末まで家格を保った。美作宮本の土豪武芸者の子で、13歳のとき新当流の有馬喜兵衛を叩き殺し出奔、生来の膂力と集中力を活かした「窮鼠猫を噛む」流儀で死闘を潜り抜け立身のため高名な兵法者を渉猟した。上洛した宮本武蔵は、吉岡道場当主の吉岡清十郎(16代吉岡憲法)を倒し弟の吉岡伝三郎も斬殺、門人100余名に襲われるが吉岡又七郎(清十郎の嫡子)を殺して遁走し、諸国を巡歴した宮本武蔵は「いかようにも勝つ所を得る心也(手段を選ばず勝つ)」で勝利を重ね、神道流杖術の夢想権之助を相手に二刀流を試した。柳生石舟斎宗厳は「あの男は獣のにおいがする」と面会を拒否、売名剣士は敬遠され宝蔵院胤栄・胤舜、鎖鎌の宍戸某、柳生新陰流の大瀬戸隼人・辻風左馬助らとの決闘は史実に無い。さて佐々木小次郎は、中条流の富田勢源に長大剣「物干し竿」を仕込まれ富田景政も凌いだ強豪で、越前一乗谷を出奔して諸国を遍歴し秘剣「燕返し」と「巖流」を創始、豊前小倉藩主細川忠興から剣術師範に招かれた。小倉藩家老の長岡佐渡を動かして「巖流島の決闘」に引張り出した宮本武蔵は、二時間も遅れて到着し出会い頭の一撃で小次郎を撲殺(倒した小次郎を弟子と共に打殺したとも)、13歳から29歳まで60余戦全勝を収めた武蔵は血闘に終止符を打った。仕官を求めた宮本武蔵は、徳川譜代の水野勝成に属して大坂陣を闘い、本多忠刻(忠勝の嫡孫)に仕えて養子の宮本三木之助を近侍させ、尾張藩・高須藩に円明流を指導、忠刻が早世すると(三木之助は殉死)養子の宮本伊織を小笠原忠真へ出仕させ移封に従って豊前小倉藩へ移り島原の乱に従軍した。晩年は肥後熊本藩主細川忠利に寄寓し金峰山「霊巌洞」に籠って『五輪書』や処世訓『十智の書』・自戒の書『独行道』などを著作、水墨画の『鵜図』『枯木鳴鵙図』『紅梅鳩図』(国定重文)や武具・彫刻など多数の工芸作品も遺した。

史実

1584年 (詳細不明)土豪武芸者の平田武仁(または新免無二)の子として宮本武蔵が美作吉野郡讃甘村宮本にて出生、10歳のころ父と大喧嘩して家出し播磨佐用郡平福村の田住家(別所家臣)に再嫁した生母の率子を頼るが正蓮院へ預けられる

1585年 羽柴秀吉(豊臣秀吉)が藤原氏五摂家筆頭の近衛前久の猶子となり関白に就任、微賤の出で譜代家臣の無い秀吉は弟の羽柴秀長を大和郡山城100万石(筒井定次は伊賀へ転封)に封じ加藤清正・福島正則・石田三成・小西行長ら子飼い武将に官位・官職を与え加増して大名格に引上げる

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1585年 [紀州征伐]織田家を掌握し徳川家康と停戦した羽柴秀吉(豊臣秀吉)が天下統一戦を開始、自ら10万を率い小牧・長久手合戦で徳川に加勢した雑賀衆(太田城)・根来衆(根来寺)を攻め滅ぼし和泉・紀伊を平定、逸早く秀吉に帰順し小牧・長久手合戦で鉄砲頭を務めた鈴木重秀は父の鈴木重意を説いて降伏を促し子の鈴木孫一郎を秀吉の人質に出して忠誠を示すが秀吉は後顧の憂いを絶つべく藤堂高虎に命じて重意を謀殺、ここに紀伊の鉄砲傭兵集団は滅亡し僅かに鈴木重朝(重秀の後継者)らが体制秩序で命脈を保つ

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1585年 [四国攻め]紀州征伐に並行して羽柴秀吉(豊臣秀吉)が総大将羽柴秀長・軍監黒田官兵衛・三好秀次・宇喜田秀家・小早川隆景の総勢10万余を派兵し阿波・讃岐・伊予の三方から四国へ侵攻、長宗我部元親は阿波白地城に籠って抵抗するが圧倒的大軍の前に為す術なく土佐一国の安堵を条件に降伏、秀吉は没収領の伊予を小早川隆景・讃岐を仙石秀久と十河存保・阿波を蜂須賀家政に与える

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1585年 羽柴秀吉(豊臣秀吉)の命により毛利輝元・小早川隆景から所領と来島村上水軍を取戻した来島通総が四国伊予攻めに従軍し旧主河野氏の討滅に働いて伊予風早郡1万4千石の大名に栄達(のち通総は朝鮮役で戦死、後嗣の来島長親は関ヶ原の戦いで西軍に属すが福島正則の取成しで赦され豊後森藩1万4千石を立藩)、秀吉に反抗し従軍命令に背いた村上武吉(能島村上水軍)は小早川に攻められて根拠地の能島を奪われ備後竹原へ移される(後嗣の村上元吉・景親は毛利家に仕え子孫は長州藩船手組組頭として存続)

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1585年 [第一次上田合戦]羽柴秀吉(豊臣秀吉)への対抗上北条氏との同盟強化を望む徳川家康が上野沼田領の引渡しを拒絶する真田昌幸を攻撃、昌幸は一度寝返った上杉景勝に次男の真田信繁(真田幸村)を人質に送って援軍を乞い、信濃上田城に来襲した徳川軍を奇計で壊滅させ沼田城を襲った北条氏邦も撃退するが、再び上杉を見限って天下人秀吉に鞍替え(4年後に真田信繁は越後を脱出し岳父大谷吉継を通じて人質として秀吉に近侍する)、武田信玄の庶子海野竜宝を担ぎ出して徳川領を侵食するも秀吉の仲裁で家康と和睦し嫡子真田信之の妻に本多忠勝の娘小松姫(家康養女)を迎える

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1585年 [富山の役]賤ヶ岳の戦い不参加で本領安堵された越中の佐々成政(柴田勝家与力)が小牧・長久手の戦いに呼応し前田利家の加賀へ攻め込むが撃退され(末森城の後巻)羽柴秀吉(豊臣秀吉)と徳川家康の和睦停戦により孤立、成政は厳冬の「さらさら越え」で浜松へ赴き家康に再挙を促すが断られ越中を秀吉・利家に攻囲され降伏、秀吉は成政の越中領を没収するが(新川一郡のみ安堵)命は助けて御伽衆に採用、旧佐々領を与えられた前田利家は加賀・能登に越中を併せ三国の太守となる

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1585年 [阿蘇合戦]島津義弘の軍勢が阿蘇惟光を打破り肥後平定を達成、九州統一を目論む島津義久は大友宗麟への攻勢を強め豊後・筑前へ殺到

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1585年 島津氏と反大友勢力の猛攻に晒された立花道雪が立花宗茂・高橋紹運・朽網鑑康を率いて必死の防戦、豊後へ長駆して大友宗麟・義統父子を救援し筑後に馳せ戻って島津方諸城を攻略、道雪を妬む大友親家(宗麟の次男)の援軍が戦線離脱するなか道雪・紹運は高良山に布陣して3倍の敵軍を撃退、島津軍を押し返す勢いを示すが柳川城攻撃中に高良山陣中で無念の病死(享年73。「屍に甲冑を着せ柳川の方に向けて埋めよ」と遺言したが養嗣子の宗茂は敵中に残し置くのを儚み遺骸を伴って立花城へ帰還)、大黒柱を喪った大友氏は完全に死に体となり島津方への寝返りが相次ぐ

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1585年 徳川家康重臣の石川数正が羽柴秀吉(豊臣秀吉)方に電撃移籍、徳川家は旧武田軍に倣って軍法を刷新し本城を駿府城に移転

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交遊録

新免無二 主君または父
宮本三木之助 本多忠刻に従い殉死した武蔵養子
宮本伊織 小倉藩家老となった武蔵養子
竹村与右衛門 尾張藩に円明流を広めた門人
寺尾孫之允 熊本藩に円明流を広めた門人
寺尾求馬助 孫之允弟・熊本藩に円明流を広めた門人
並木源左衛門 門人・吉原名主
山田三之丞 門人・吉原名主
庄司甚内 吉原惣名主
夢想権之助 神道流杖術の開祖
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