「本多 正信」の家系

本多 正信

(ほんだ まさのぶ)

1538年~1616年

徳川家康の謀略を担い天下簒奪に貢献、本多忠勝・大久保忠隣ら武功派を退け初期幕政を握るも加増を固辞し相模玉縄藩1万石に留まるが嫡子本多正純が訓戒に背いて下野宇都宮藩15万5千石への加増を受け将軍徳川秀忠・土井利勝の報復に遭い宇都宮城釣天井事件で改易

本多氏は徳川(松平)最古参「安祥七譜代」の一つで宗家の本多忠勝は順調に出世を重ねたが、本多正信は末流で身分は低く最初は鷹匠として徳川家康に出仕した。本多正信は、三河一向一揆の首謀者として家康に反逆し徳川家を出奔したが10余年の流浪の後に帰参を許され、家康の関東移封に伴い相模玉縄1万石(2万2千石とも)で大名に列し豊臣秀吉没後の政局で台頭、「加賀征伐」の挑発策で前田利長(利家の嫡子)を屈服させるなど専ら謀略を担い家康の天下簒奪に大功を挙げた。江戸幕府が発足すると本多正信は嫡子正純と共に大御所家康側近グループを束ね(吏僚派)「岡本大八事件」で巻返されるが「大久保長安事件」を契機に大久保忠隣を改易に追込み将軍徳川秀忠側近グループ(武功派)を打倒、出羽米沢藩の保全に奔走する直江兼続の求めに応じて次男本多政重を兼続の婿養子に送込み(のち政重は加賀前田家に転じ3万石の筆頭重臣となる)、三男の本多忠純は下野榎本藩1万石・弟の本多正重は下総舟戸藩1万石を与えられ正信系大名は4家となった。本多正信自身は大老的地位に上り詰めながら妬みを配慮して死ぬまで加増を固辞し、正純に3万石以上は受けぬよう訓戒し病没した(死因は梅毒とされ相貌が崩れていたという)。が、幕閣を牛耳り慢心した本多正純は自ら運動して下野小山藩3万3千石から下野宇都宮藩15万5千石への大幅加転封を受け、6年後に将軍秀忠と大久保忠隣一派・土井利勝(家康の落胤説あり)ら秀忠側近の報復に遭い宇都宮城で秀忠暗殺を企てた嫌疑を掛けられ改易・身柄は出羽久保田藩主佐竹義宣にお預けとなった(宇都宮城釣天井事件)。本多忠純(三男)は粗暴な性格が災いして家臣に殺害され養嗣子の政遂(政重の子)が下野榎本藩2万8千石を相続したが早世、嫡子犬千代も夭逝したため無嗣改易となった。本多政重(次男)の子孫は加賀藩家老として存続し、本多正重(弟)の子孫は大名家を保ち安房長尾藩4万石で幕末を迎えた。
本多氏は、藤原氏北家兼通流を称する三河の土豪で徳川(松平)最古参の「安祥七譜代」(酒井・大久保・本多・阿部・石川・青山・植村)に数えられる。江戸時代には大名13家・旗本45家を輩出し葵紋の使用を唯一許される譜代屈指の大族となった。6系統のうち本多正信・正純(弥八郎家)が初期幕政を牛耳ったが宇都宮城釣天井事件で没落、家康に遠ざけられた本多忠勝の子孫(平八郎家)が最も繁栄し本多宗家と目された。松平清康・広忠に仕えた本多忠高は、嫡子忠勝出生の翌年織田信秀との合戦で戦死し(今川軍は三河安祥城を攻略し織田信広を確保、人質交換で織田から家康を奪回)、忠勝は叔父の本多忠真に養育された(忠真は三方ヶ原の戦いで戦死)。少年期より家康に仕えた本多忠勝は、12歳の初陣以来武功を重ね武田信玄・豊臣秀吉も羨む勇将となり、関ヶ原勝利に伴い徳川家臣では井伊直政(家康の養女婿)の近江佐和山藩18万石に次ぐ伊勢桑名藩10万石および上総大多喜藩5万石を獲得、本多宗家の家督と桑名藩は嫡子忠政に・大多喜藩は次男忠朝に継がせた。長女小松姫を嫁がせた真田信之は、関ヶ原の戦いで真田昌幸・幸村(父・弟)と喧嘩別れして徳川に与し昌幸領に3万石を加増され信濃上田藩9万5千石を立藩(後に松代藩13万石へ移封)、舅の本多忠勝は昌幸・幸村の助命嘆願を周旋した。次女は武田勝頼の猛攻から長篠城を守った奥平信昌の嫡子家昌に嫁がせている。本多忠政は嫡子忠刻が千姫(徳川秀忠の娘)を娶り逆玉の輿で播磨姫路藩15万石へ栄転、忠刻早世のため次男政朝が本家を継ぎ、分家した三男忠義は陸奥白河藩12万石に封じられた。本多忠勝の子孫は忠政・忠朝の両系統から6大名家を輩出したが零細化し幕末には本家の三河岡崎藩5万石と播磨山崎藩1万石のみとなった。