著名自分史「本多正信」

オリジナル

本多 正信

ほんだ まさのぶ

本多 正信

1538年~1616年

60

徳川家康の謀略を担い天下簒奪に貢献、本多忠勝・大久保忠隣ら武功派を退け初期幕政を握るも加増を固辞し相模玉縄藩1万石に留まるが嫡子本多正純が訓戒に背いて下野宇都宮藩15万5千石への加増を受け将軍徳川秀忠・土井利勝の報復に遭い宇都宮城釣天井事件で改易

寸評

基礎点 60点 本多正信は、徳川家康の謀略を担い天下簒奪に貢献、本多忠勝・大久保忠隣ら武功派を退け初期幕政を握るも加増を固辞し相模玉縄藩1万石に留まるが嫡子本多正純が遺命に背いて下野宇都宮藩15万5千石への加増を受け将軍徳川秀忠・土井利勝の報復に遭い宇都宮城釣天井事件で改易となった。「安祥七譜代」の本多一族だが末流で身分は低く鷹匠として徳川家康に出仕、1564年三河一向一揆で出奔し松永久秀を経て加賀一向一揆に加わるが1580年本願寺顕如が織田信長に屈服、一揆は解体され流浪した。大久保忠世の取成しで家康に帰参を許された本多正信は武辺揃いの三河武士のなかで異彩を放ち、1590年家康の関東に伴い相模玉縄1万石(2万2千石とも)で大名に列し豊臣秀吉没後の謀略を主導、1599年加賀征伐を画策し前田利長(利家の嫡子)を挑発すると、豊臣秀頼に救援を断られた利長は生母の芳春院(まつ)を人質に差出し養嗣子の前田利常と珠姫(徳川秀忠の娘)の縁談を受入れ屈服した。関ヶ原合戦では中山道隊の軍監を務めたが(家康隊は東海道を進軍)大将の秀忠が真田昌幸の信濃上田城攻めに固執し関ヶ原に遅参、戦後正信に加増は無かったが家康の信任は不変だった。徳川の世になると、本多正信は家康に本願寺の分断工作を献策し准如(秀吉が保護した顕如の三男)の西本願寺に対抗して教如(秀吉が追放した顕如の長男)を法主とする新本願寺を創建(東本願寺)、現在まで続く泥仕合を導出した。1605年家康は徳川の天下(豊臣への不返還)を明示すべく秀忠に将軍位を譲り駿府城に退くが実権を保持したため幕府は二頭体制となり(大御所政治)、秀忠側近の大久保忠隣・長安に正信憎しの本多忠勝らが加担し(武功派)家康側近で結城秀康を将軍に推した本多正信・正純ら(吏僚派)の対立が先鋭化した。1612年劣勢の武功派は本多正純の家臣と有馬晴信の贈収賄事件(岡本大八事件)で巻返すが、翌年吏僚派は死去した大久保長安の不正蓄財を糾弾し一族郎党を処刑(大久保長安事件)、親分の大久保忠隣も改易に追込んだ。2年後に本多正信は病没、嫡子の正純が幕政を牛耳ったが加増自重の訓戒に背き墓穴を掘った。

史実

1538年 本多俊正の次男本多正信が三河にて出生、「安祥七譜代」の本多一族だが末流で身分は低く鷹匠として徳川家康に出仕する

1541年 武田晴信(信玄)が重臣の板垣信方・甘利虎泰・飯富虎昌及び姉婿今川義元と共謀して父武田信虎を駿河へ追放し家督と甲斐守護職を承継、領民は暴虐な信虎の追放を歓迎

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1541年 美濃国を専断する斎藤秀竜(斎藤道三)に対し土岐頼満(頼芸の弟)・頼次(頼芸の嫡子)らが挙兵、秀竜支持の土岐頼芸は尾張の織田信秀・近江の六角定頼・越前の朝倉孝景に仲裁を依頼し内乱収束、秀竜は引責剃髪し斎藤道三と号す

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1541年 父北条早雲が征した伊豆・相模を固め武蔵・駿河に勢力を伸ばした北条氏綱が死去、嫡子北条氏康が打倒上杉氏・関東制覇の遺志を継ぐ

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1541年 流浪の身から最盛期には山陰・山陽11ヶ国に君臨した尼子経久が月山富田城にて病没(享年82)

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1542年 斎藤道三が反抗勢力の首領土岐頼満(頼芸の弟)を毒殺、これにより対立した傀儡の美濃守護土岐頼芸の大桑城を急襲、土岐頼芸・頼次父子は織田信秀を頼って尾張に亡命し斎藤道三が名実ともに美濃一国を平定、土岐頼芸の落胤と考えられていた嫡子斎藤義龍を後継指名して反抗を鎮める

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1542年 武田信虎の諏訪氏懐柔路線を放棄した武田晴信(信玄)が諏訪氏の家督を狙う高遠頼継と提携し妹婿の諏訪頼重を討滅、領土分割案に不満で反旗を挙げた高遠頼継も一蹴、頼重の嫡子寅王丸を擁して諏訪領を掌握したうえ頼重の娘「かくれなき美人」諏訪御料人(武田勝頼生母)を側室とする

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1542年 徳川家康(竹千代)が西三河の土豪松平広忠の嫡子として出生(家祖の松平親氏は三河松平郷の庄屋家に婿入りした遊芸僧の徳阿弥、家康の祖父松平清康の代に西三河を制圧したが、清康急死で零落し織田信秀に圧迫された広忠は今川義元に臣従)

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1543年 [鉄砲伝来]倭寇の頭目王直(五峯)の明船がポルトガル人を乗せて種子島に来航、領主の種子島恵時・時尭父子は火縄銃2挺を購入し刀鍛冶の八板金兵衛に命じて複製に成功、貿易商人を通じて忽ち畿内へ伝播し早くも同年中に和泉堺・紀州根来寺・近江国友などで鉄砲製造がスタート、鉄砲と硝石の調達・鉄砲鍛冶の獲得・鉄砲隊の調練は戦国大名の軍事戦略の要諦となる

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1544年 土岐政頼と土岐頼芸が打倒斎藤道三で和解・連携し越前朝倉孝景・尾張織田信秀の加勢を得て南北から美濃国に侵攻、斎藤道三は防衛に成功し政頼を革手城に・頼芸を揖斐北方城に迎え入れる条件で停戦合意

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交遊録

本多俊正
本多正純 正信後嗣・改易された吏僚派首領
本多政重 加賀前田家に送込まれた正信次男
本多忠純 下野榎本藩を立藩したが家臣に殺された正信三男
本多正重 帰参し下総舟戸藩主となった正信弟
岡本大八 正純配下の汚職官僚
有馬晴信 岡本大八事件で死罪
松平清康 家康祖父
松平広忠 家康父
徳川家康 主君
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