著名自分史「武藤章」

オリジナル

武藤 章

むとう あきら

武藤 章

1892年~1948年

30

石原莞爾を失脚させ日中戦争拡大・日独伊三国同盟を主導、「中国一激論」が挫折し日中講和へ転じたが田中進一らの強硬論を覆せず、対米開戦に反対し東條英機内閣打倒に動くも東京裁判で死刑に処された陸軍統制派のリーダー

寸評

基礎点 30点 武藤章は、陸軍「統制派」永田鉄山の後継者にして「華北分離工作」の起草者である。盧溝橋事件が起ると蒋介石政府を侮る武藤章は「中国一激論」を唱え、田中新一・東條英機ら統制派の勢力を後ろ盾に石原莞爾ら不拡大派を追放、近衛文麿内閣による日中戦争拡大と日独伊三国同盟に主導的役割を果した。思惑が外れ日中戦争が泥沼化に陥ると武藤章は日中講和に努めたが近衛文麿内閣の強硬姿勢を覆せず、陸軍省枢要の軍務局長として対米戦争に反対したが田中新一・東條英機らの強硬論に屈した。開戦後は早期講和を主張し岡田啓介らの東條英機内閣打倒工作に加担したが、東條に探知され前線のフィリピンへ送られ、終戦後の東京裁判で無念の死刑判決を受けた。中国一激論が挫折すると潔く停戦講和へ転じたとはいえ、亡国の元凶である日中戦争泥沼化に果した武藤章の責任は極めて重い。主犯は直ちに軍隊増派を決定し「近衛声明」で墓穴を掘った近衛文麿首相・広田弘毅外相だが、石原莞爾ら不拡大派の一掃は陸軍の自律機能を破壊し、首謀者の武藤章自身が後に孤立化する原因となった。また武藤章は、アメリカには勝ち目が無いと認識しながら日独伊三国同盟を推進したが、米英を正面敵に回す愚行であり見通しが甘すぎた。

史実

1837年 関東軍参謀長の東條英機が察哈爾派遣兵団を率いて出陣し独断で日中戦争の戦線を拡大

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1892年 熊本県白水村の地主の家に出生、済々黌中学・熊本陸軍地方幼年学校に就学

1913年 武藤章・田中新一が陸軍士官学校(25期)卒業

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1914年 第一次世界大戦勃発、世界的物資不足のなか日本は特需景気を満喫

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1914年 大隈重信政府が日英同盟を名分にドイツに宣戦布告し南洋諸島・山東省青島を占領

1915年 大隈重信首相・加藤高明外相が袁世凱の中華民国に「対華21カ条要求」を宣告

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1917年 レーニンらボルシェヴィキがロマノフ朝ロシアを滅ぼし世界初の社会主義政権を樹立(ロシア革命)

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1918年 第一次世界大戦終結

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1919年 パリ講和会議・ベルサイユ条約で第一次世界大戦の講和成立(日本全権は西園寺公望・牧野伸顕)

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1919年 寺内正毅死去

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交遊録

永田鉄山 偉大なリーダー
小畑敏四郎 一夕会仲間
岡村寧次 一夕会仲間
石原莞爾 宿敵
板垣征四郎 石原派
河辺虎四郎 石原派
多田駿 石原派
東條英機 盟友転じて決裂
田中新一 同期のライバル
鈴木貞一 東條派
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